むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

12、澪標 ③

2023年10月08日 08時36分19秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳










・源氏は、公私怱忙のうちにも、
明石の君のことは忘れていなかった。

三月ごろになると、

(そろそろ、産み月ではないか)

と人知れず、あわれに思い、
使いを明石に立てた。

使者は急ぎ戻り、

「十六日に生まれられました。
姫君でした。
ご安産で、
母君もおすこやかにいられます」

と報告した。
源氏は嬉しかった。

はじめての女の子であり、

(なぜ、京へ迎えて出産させなかったのか)

と残念だった。
内大臣の姫とあろうものを。

娘を駒に持つ、
源氏は政界に、
さらに強力な布石をした。

須磨流謫後の源氏は、
もはや昔の源氏ではない。

あの政治的失脚に際して、
政敵たちがどんな酷薄、陋劣な手を使って、
源氏を圧迫したか、
源氏は骨身に沁みたのである。

いま源氏は野心に燃える壮齢の政治家として、
復活した。

源氏はもはや握った権力を、
どんな手段をもってしても、
失うまいとする。

あらゆる政敵を蹴落とし、
政治的生命をを充実し続けて、
権力の中枢に居座ろうと決意している。

そのためには、
源氏はあらゆるものを、
政治的に利用する気があった。

女の子が生まれれば、
やがては次代の帝に入内させることも、
あり得ない夢ではない。

源氏はかつて、
運命を占わせたとき、

「お子は三人、
帝と后が生まれたまう。
低い身分の方は太政大臣となり、
位人臣をきわめられましょう。
また后は、いちばん低い身分の、
女人に生まれたまうでありましょう」

といわれた。

源氏は、それを思いだして、
愕然とする。

三人の子のうち、
一人は帝にというのは、
まさしく、当帝の冷泉帝のことではないか。

人こそ知らね、
帝は源氏のお子であられる。

とすれば、后にというのは、
いま生まれた明石の姫君の将来のことに、
違いない。

尊い后の位にのぼるべき姫が、
波荒い磯のほとりで生まれたとは、
ふびんな気がして、
源氏は早急に明石の君母子を、
京へ引き取りたいと思った。

だが、源氏の喜びを、
紫の君はどう受け止めるであろう。

どう告げるべきであろう。

紫の君に伏せたまま、
源氏は明石の小さな姫君に、
心づかいを示していた。

あのような田舎では、
はかばかしい乳母も見つかるまい、
と思って、まず乳母を物色した。

折もよく、格好の乳母があった。

父・故桐壺院にお仕えした宣旨の娘である。

父も母も亡くなったあと、
心ぼそい暮らしの中に、
かりそめの恋をして、
子供を生んだと聞いて、
源氏は仲立ちを介して、
乳母に採用する話をすすめた。

女は、身寄りもなく、
貧しい暮らしに心細いころだったし、
源氏からの話なので、
一も二もなく、承知した。

乳母は車で京を出ていった。

源氏は腹心の召使いをつけて、
こっそり発たせたのである。

乳母には明石の姫のことは、
誰にも口外するな、
と口止めした。

お守り刀、その他必要な物いっさい、
おびただしく持たせ、
乳母にも十分な心づかいをした。

入道がどんなに小さな姫君を、
大事に世話をし、愛しているだろうと、
源氏は思わずほほえまれる。

と同時に、
この手で抱き上げてやれない姫君を、
哀れに思い、
母になった明石の君への手紙にも、

「くれぐれもおろそかにせず、
大事に育ててください。
あなたと小さい姫を、
一日も早く手もとへ引き取りたい」

としたためた。

乳母の一行は摂津まで舟で、
それから馬で先を急いだ。

入道は待ち受けていて、
限りなく喜び、
源氏の心づかいに感激する。

乳母は姫君を見て、

「まあ、お美しい!」

と感嘆した。

なれぬ旅の苦しさも、
都落ちしたわびしさも忘れ、
姫君がかわいくて大切に世話をする。

子持ちになった明石の君も、
源氏と別れて以来、
物思いに衰弱していたが、
この度の源氏の配慮で、
なぐさめられる気がした。

「すぐ帰ります」

と使者が帰京を急ぐので、
明石の君は少しばかり返事をしたためた。

「わたくし一人で育てるのは、
心もとなく存じます。
あなたの力強いお手に、
小さい姫君を抱き上げて頂ける日が、
早く参りますように」

源氏はそれを見て、
早く会いたくてたまらなかった。






          


(次回へ)

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