むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

10、わが愛するカンボジア ③

2022年07月24日 08時19分49秒 | 田辺聖子・エッセー集










・シアヌーク殿下は救国の明主のように日本でも喧伝され、
カンボジアの奇蹟的平和はゆるぎなく、
永遠につづくように思えていた。

そして実際に来てみたカンボジアは、
まさに平和を凝縮したらこういう味わいだろうと思わせた。

プノンペンの町には自動車もあるが、
シクロと呼ぶ輪タクが多い。

自転車の前に幌つきの腰かけ台がある。

それに乗って木陰の多い並木道をゆくうちに、
町は典雅なたたずまいを見せ、
さまざまの貌をあらわす。

はだしで天秤棒をかつぎ、
ミカンのような果物を売る男もあった。

白い夏服の男、
ブラウスに腰布の女。

カンボジア人は大きな黒い瞳を持ち、
唇は厚く、ひきしまっている。

鼻はゆったりと横に拡がっているが、
この鼻は大きい瞳と厚い唇によく調和して美しい。

あとでアンコールトムのバイヨン廟のテラスに上がったとき、
周囲にある巨大な石像の顔が、
シェムレアプのレストランのボーイの顔にそっくりだったので、
一驚した。

アンコールの人面像のような青年が、
町いっぱいに歩いていた。

プノンペンで泊ったホテルは「ホテル・ロワイヤル」、
プノンペン発祥の地といわれる、
プノムの塔に近い、格式あるホテルである。

クリスマスは過ぎていたが、
庭の木々には赤や青の色電球がついていて、
夜はそれが風に揺れていた。

古いヨーロッパの匂いのある、
上等のホテルだった。

従業員はカンボジア人だが、
親切で礼儀正しく、
いつもどこからかしら、
私たちを見ていた。

この国では、
ホテルの部屋に現金を置いても、
決して盗まれることはない、といわれるが、
ほんとにそういう雰囲気だった。

部屋のベッドには、
白いチュールの蚊帳があり、
古びたいい家具があった。

明け方、近くのお寺の鐘が鳴り、
朝風に蚊帳が揺れると、
ヨーロッパでもアメリカでも感じなかったような、
旅情をおぼえた。

そして次の予定地、
シェムレアプ市へ向かった。

アンコールワットは、
この町から北方七キロばかりのところにある。

シェムレアプは外国人観光客でいっぱいだった。

広大なグランドホテルの前庭に輪タク(シクロ)が群れていて、
二人乗りが、一日貸し切りでたしか、二百リエル、
二千円くらいだった。

高いのか安いのか分からないが、
観光バスに乗って廻るより面白いだろうと、
輪タクで行くことにした。

大晦日だったが、
灼けつくような陽光で、
アンコールワット一帯はジャングルである。

参道前にはいいホテルもあるが、
並木道をシクロで朝早く駆ける快さは、
いいようがない。

陽光がちらちらして、
水牛の群れをいくつも追い抜いてゆく。

森の匂いを楽しんでいるうち、
やがて信じられぬほど巨大な石の殿堂に向き合う。

それが塔門である。

十三世紀に造られ、
やがて十四、五世紀にはこの都は放棄される。

ジャングルが都を包み、
1861年にフランスの一学者に発見されるまで、
眠っていた死の寺院や王宮。

遺跡というと、私は奈良の石造物を思い浮かべる。

石舞台や鬼のまな板、鬼の雪隠、益田岩船などを連想するが、
それらはアンコールの建造物の前では、
ただの小さな石ころになってしまう。

とにかく、大きくて優美で威厳のある、
石の建物だった。







          


(次回へ)

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