・夏の宵のうたた寝は心地よいもの、
庭先の橘の果の香りがかすかに流れ、
たそがれはじめた草の茂みに露が光り初める。
撫子がひとむら咲き固まっているあたりも、
いつか夕闇に溶けて・・・
おやおや、年寄りの夕惑い、というのかしら、
ついうたた寝をしてしまって。
生絹(すずし)の単衣に夕風が気持ちよかったものだから。
でも本当は麻の手織りが、夏はいちばんなんだけれど、
もう昔みたいに、細い麻糸で目のこまやかな、
いい麻布を織れる人はいなくなってしまった。
昔はいたんだよ、
そんな麻布を織れる女が。
その女の手織りの麻布ときたら、しなやかで軽く、
まるで蜻蛉の羽か、霧みたいに薄く、
それでいてしゃっきりして、
その麻布を着ると風を着たような心地だったという・・・
とても機織りの巧みな女だった。
尾張の草津川の生まれで、
同じ尾張の中島の郡へ嫁いできた。
夫はその郡の大領(郡長)だった。
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・女は機織りや縫い物、染め物が上手だったばかりでなく、
美しくて姿形もなよなよして気がやさしい。
夫との仲もまことにむつまじく幸福に暮らしていた。
その女が織りあげた麻布は、それはみごとな出来栄えだった。
更にその布を檜皮色に美しく染め、
こまやかな針目で縫って仕立てた着物を、
夫の大領はどんなに賞で、喜んだことだろう。
「おお・・・天人の羽衣のようだよ、
この風合いのよさ、色のめでたさ、仕立ての巧みさ、着心地のよさ、
・・・ありがとう」
と夫が喜べば、
「嬉しいわ、そんなにお気に入って頂けて」
と妻も喜び、夫の老いた父母も、
新調の衣を身につけた息子の姿をほれぼれと見上げて喜ぶという、
幸せな一家のたたずまいだった。
夫はそれを着て、気も晴れ晴れと国守の館へ向った。
ところが夫は、程もなく、下着姿で悄然と戻ってきた。
妻は驚いた。
「どうなさったの、着物は。
引き剥ぎ(強盗)にでも奪われたの?」
「引き剥ぎより悪いよ。
国守に召し上げられてしまった・・・」
夫の語るところでは、
国守は夫の着物をじろじろ眺めたあげく、
「ちょっとそれを脱いで、よく見せてくれ、
いいもの着てるじゃないか。
都の貴人だってそれほどのものはお持ちじゃあるまいよ」
というので夫は得意になって脱いだ。
国守は着物をまさぐっているうち、むらむらと欲が出、
邪悪な笑いを浮かべて、
「大領、これをわしに譲れ」
「は?」
「これはお前ごときには勿体ない品だ。
わしが着ることにする」
「しかし、それは妻が・・・」
「うるさい!わしのものにするといったら、するのだ!」
泣く子と国守には勝てないというけれど、
夫は仕方なく、しおしおと戻ってきたというわけ。
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・それを聞く妻の白い頬にさっと血がのぼった。
しかし口について出た言葉は、
「あなた、ほんとうにあの着物、惜しいと思う?」
というやさしくもしとやかなものだった。
「もちろんだよ、悔しいやら情けないやら、
おれは目の前が真っ暗になった心地がする」
「そう、じゃ返してもらってくるわ」
「おいおい、相手は国守だよ、
何でも思い通りにできるお偉方なんだよ・・・」
「お偉方だって、非道は非道だわ」
この女、とっとと国守の館へ出かけ、
国守の前へずず~っと進み、
「さっきの着物返してちょうだい」
と涼しく言い放った。
「何だ、この女は。誰かある、こやつを放りだせ」
国守のわめき声に、男たちが女の腕を捉えて、
外へ引き出そうとしたが、女はまるで根が生えたように動かない。
「その、あんたの着てる着物を脱いで返してくれるまでは、
あたし、ぴりっともここを動きゃしないわ。
それとも、これはどお?」
女は二本の指で国守の帯をつまみ、
その体を軽々と持ち上げた。
人々の目には何が何やら、
とっさのこととて、よくわからぬうちに、
今度は国守を頭上高く持ち上げたまま、こともなげに、
館の門前へ担いでいく。
お~~っという人々の嘆声と、国守の悲鳴、
女はなおも涼しい顔で、
「さあ、どっち。着物を返すか返さないか」
「返す、返す」
国守は恐ろしさにひげ面に涙を滴らせ、
「返すから、石に叩きつけたりしないでくれ、お願いだ・・・」
国守は地面へ下ろされると、
泣きじゃくりながら着物を脱いだ。
(次回へ)