むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

20、船をかつぐ女  ①

2021年08月16日 08時51分13秒 | 「今昔物語」田辺聖子訳










・夏の宵のうたた寝は心地よいもの、
庭先の橘の果の香りがかすかに流れ、
たそがれはじめた草の茂みに露が光り初める。

撫子がひとむら咲き固まっているあたりも、
いつか夕闇に溶けて・・・

おやおや、年寄りの夕惑い、というのかしら、
ついうたた寝をしてしまって。

生絹(すずし)の単衣に夕風が気持ちよかったものだから。

でも本当は麻の手織りが、夏はいちばんなんだけれど、
もう昔みたいに、細い麻糸で目のこまやかな、
いい麻布を織れる人はいなくなってしまった。

昔はいたんだよ、
そんな麻布を織れる女が。

その女の手織りの麻布ときたら、しなやかで軽く、
まるで蜻蛉の羽か、霧みたいに薄く、
それでいてしゃっきりして、
その麻布を着ると風を着たような心地だったという・・・

とても機織りの巧みな女だった。

尾張の草津川の生まれで、
同じ尾張の中島の郡へ嫁いできた。
夫はその郡の大領(郡長)だった。


~~~


・女は機織りや縫い物、染め物が上手だったばかりでなく、
美しくて姿形もなよなよして気がやさしい。

夫との仲もまことにむつまじく幸福に暮らしていた。
その女が織りあげた麻布は、それはみごとな出来栄えだった。

更にその布を檜皮色に美しく染め、
こまやかな針目で縫って仕立てた着物を、
夫の大領はどんなに賞で、喜んだことだろう。

「おお・・・天人の羽衣のようだよ、
この風合いのよさ、色のめでたさ、仕立ての巧みさ、着心地のよさ、
・・・ありがとう」

と夫が喜べば、

「嬉しいわ、そんなにお気に入って頂けて」

と妻も喜び、夫の老いた父母も、
新調の衣を身につけた息子の姿をほれぼれと見上げて喜ぶという、
幸せな一家のたたずまいだった。

夫はそれを着て、気も晴れ晴れと国守の館へ向った。
ところが夫は、程もなく、下着姿で悄然と戻ってきた。
妻は驚いた。

「どうなさったの、着物は。
引き剥ぎ(強盗)にでも奪われたの?」

「引き剥ぎより悪いよ。
国守に召し上げられてしまった・・・」

夫の語るところでは、
国守は夫の着物をじろじろ眺めたあげく、

「ちょっとそれを脱いで、よく見せてくれ、
いいもの着てるじゃないか。
都の貴人だってそれほどのものはお持ちじゃあるまいよ」

というので夫は得意になって脱いだ。
国守は着物をまさぐっているうち、むらむらと欲が出、
邪悪な笑いを浮かべて、

「大領、これをわしに譲れ」

「は?」

「これはお前ごときには勿体ない品だ。
わしが着ることにする」

「しかし、それは妻が・・・」

「うるさい!わしのものにするといったら、するのだ!」

泣く子と国守には勝てないというけれど、
夫は仕方なく、しおしおと戻ってきたというわけ。


~~~


・それを聞く妻の白い頬にさっと血がのぼった。
しかし口について出た言葉は、

「あなた、ほんとうにあの着物、惜しいと思う?」

というやさしくもしとやかなものだった。

「もちろんだよ、悔しいやら情けないやら、
おれは目の前が真っ暗になった心地がする」

「そう、じゃ返してもらってくるわ」

「おいおい、相手は国守だよ、
何でも思い通りにできるお偉方なんだよ・・・」

「お偉方だって、非道は非道だわ」

この女、とっとと国守の館へ出かけ、
国守の前へずず~っと進み、

「さっきの着物返してちょうだい」

と涼しく言い放った。

「何だ、この女は。誰かある、こやつを放りだせ」

国守のわめき声に、男たちが女の腕を捉えて、
外へ引き出そうとしたが、女はまるで根が生えたように動かない。

「その、あんたの着てる着物を脱いで返してくれるまでは、
あたし、ぴりっともここを動きゃしないわ。
それとも、これはどお?」

女は二本の指で国守の帯をつまみ、
その体を軽々と持ち上げた。

人々の目には何が何やら、
とっさのこととて、よくわからぬうちに、
今度は国守を頭上高く持ち上げたまま、こともなげに、
館の門前へ担いでいく。

お~~っという人々の嘆声と、国守の悲鳴、
女はなおも涼しい顔で、

「さあ、どっち。着物を返すか返さないか」

「返す、返す」

国守は恐ろしさにひげ面に涙を滴らせ、

「返すから、石に叩きつけたりしないでくれ、お願いだ・・・」

国守は地面へ下ろされると、
泣きじゃくりながら着物を脱いだ。






          


(次回へ)

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