・今まで私は、
子育てについて意見を求められると、
「私はその任ではありませんから」
とおことわりしてきた。
私自身、子供を持ったことはないし、
夫の子供の成長は見たけれど、
これは半加工の製品をあずかったわけで、
途中からの工程に立ちあったのでは、
もう一つ、よくわからない点が多いから。
しかし今回は二つの理由から、
書いてみたいと思う。
その一つは、
子育て論はたいてい、
実地に即してあげつらわれることが多い。
つまり経験した知恵とかヒントをもとにのべられるもの、
読まれた親御さんたちもすぐに教育やしつけに、
役立つと思われる実際的知識が多いようである。
しかし、子供を持たない人間の子育て論は、
理想論としてやはり存在価値があるのではなかろうか、
と思うのだ。
理想論と実際的知識と、
双方あったほうがいいように思われる。
それでいえば、夫婦論、家庭論も、
独身者の唱える理想論をききたいものである。
自分で経験したことだけを唯一絶対と信じている人に、
「これ、私のやりかたをみよ」
といわれるのはいちばん臭くてやりきれない。
そうして世の「子育て論」には、
そのたぐいのものが多い。
たまたま、うまくいって、
みんないい子に育っていても、
それは親が自慢することとちがう。
ましてや、
自分の家の教育法や子育て理念を、
誇って人に押し付けることとちがう。
いい子に育ったのはマグレが半分である。
たまたまいい子にめぐりあったのであって、
それは当りはずれの問題である。
ぐうたらで箸にも棒にもかからぬ男に、
勤勉な息子が出来たり、
傲慢で鼻もちならぬいやみな男に、
素直な子供がいたりする。
私は今まで世の中を見て来て、
(子供というのは、育てるのではない、当たるのだ)
とつくづく思うようになった。
先へいけばまた、気は変るかもしれないが、
少なくとも今は、(子供は授かりもの)ではなく、
(子供は当てもの)と思っている。
私が子供の頃、
駄菓子屋に「当てもん」というのがあった。
小さい紙のくじで、
ベリっとはがすと「アタリ」は赤い桜の判コを押してあり、
ハズレは何も書いていない。
「アタリ」はベロと呼ぶ、
きな粉をまぶしたわらび餅のようなものであったり、
セルロイドの飾り櫛、あるいはべったん、
オモチャの勲章や刀であった。
あんなふうに、子供も当たりはずれがあるのだから、
親の手柄にも自慢にもなりはしない。
子供が東大へ入った、
いいところへ就職した、
いいウチへお嫁にいった、
と自慢する親は「当てもん」で一等が当り、
オモチャのサーベルを見せびらかして、
得々としている子供と変わりはない。
その人の人生は、まさに、
その地点からはじまるので、本当は、
それから何をして死ぬか、が大切である。
当りはずれからいえば、
本当の子育て論は、はずれた人の意見を聞きたいもの。
しかし、何を指してはずれたというのか、
今非行の少年少女だって、
将来はどうなるかわからない。
市民社会に相容れない人生を選んだとしても、
それを「ハズレ」とひと口にいえるかどうか。
国民の代表としてバッジをつけ、
いい服を着てかしこそうなことを言いながら、
利権や金を漁るのに汲々としている人間、
金儲けのためなら武器も売るし、
戦争の謀略で夜も日もないという人種、
そういう手合いは「ハズレ」でないのであろうか。
子供が父母ののぞむような仕事につかず、
期待するような結婚をしなかったからといって、
「ハズレ」と呼べようか。
両親はちゃんとした結婚式を挙げることを思い描き、
楽しみにしていたのに、娘は家を出て男と同棲し、
そのうちやがて未婚の母となる。
それは親からみれば「ハズレ」であり、
子育ての敗残者、失敗者、挫折者であるかもしれないが、
しかし、娘からいえば「まっとう」であり「アタリ」の人生を、
歩きつつあるかもしれないのだ。
(次回へ)