むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

7、女の子の育て方 ①

2022年07月10日 08時46分58秒 | 田辺聖子・エッセー集










・今まで私は、
子育てについて意見を求められると、
「私はその任ではありませんから」
とおことわりしてきた。

私自身、子供を持ったことはないし、
夫の子供の成長は見たけれど、
これは半加工の製品をあずかったわけで、
途中からの工程に立ちあったのでは、
もう一つ、よくわからない点が多いから。

しかし今回は二つの理由から、
書いてみたいと思う。

その一つは、
子育て論はたいてい、
実地に即してあげつらわれることが多い。

つまり経験した知恵とかヒントをもとにのべられるもの、
読まれた親御さんたちもすぐに教育やしつけに、
役立つと思われる実際的知識が多いようである。

しかし、子供を持たない人間の子育て論は、
理想論としてやはり存在価値があるのではなかろうか、
と思うのだ。

理想論と実際的知識と、
双方あったほうがいいように思われる。

それでいえば、夫婦論、家庭論も、
独身者の唱える理想論をききたいものである。

自分で経験したことだけを唯一絶対と信じている人に、
「これ、私のやりかたをみよ」
といわれるのはいちばん臭くてやりきれない。

そうして世の「子育て論」には、
そのたぐいのものが多い。

たまたま、うまくいって、
みんないい子に育っていても、
それは親が自慢することとちがう。

ましてや、
自分の家の教育法や子育て理念を、
誇って人に押し付けることとちがう。

いい子に育ったのはマグレが半分である。

たまたまいい子にめぐりあったのであって、
それは当りはずれの問題である。

ぐうたらで箸にも棒にもかからぬ男に、
勤勉な息子が出来たり、
傲慢で鼻もちならぬいやみな男に、
素直な子供がいたりする。

私は今まで世の中を見て来て、
(子供というのは、育てるのではない、当たるのだ)
とつくづく思うようになった。

先へいけばまた、気は変るかもしれないが、
少なくとも今は、(子供は授かりもの)ではなく、
(子供は当てもの)と思っている。

私が子供の頃、
駄菓子屋に「当てもん」というのがあった。

小さい紙のくじで、
ベリっとはがすと「アタリ」は赤い桜の判コを押してあり、
ハズレは何も書いていない。

「アタリ」はベロと呼ぶ、
きな粉をまぶしたわらび餅のようなものであったり、
セルロイドの飾り櫛、あるいはべったん、
オモチャの勲章や刀であった。

あんなふうに、子供も当たりはずれがあるのだから、
親の手柄にも自慢にもなりはしない。

子供が東大へ入った、
いいところへ就職した、
いいウチへお嫁にいった、
と自慢する親は「当てもん」で一等が当り、
オモチャのサーベルを見せびらかして、
得々としている子供と変わりはない。

その人の人生は、まさに、
その地点からはじまるので、本当は、
それから何をして死ぬか、が大切である。

当りはずれからいえば、
本当の子育て論は、はずれた人の意見を聞きたいもの。

しかし、何を指してはずれたというのか、
今非行の少年少女だって、
将来はどうなるかわからない。

市民社会に相容れない人生を選んだとしても、
それを「ハズレ」とひと口にいえるかどうか。

国民の代表としてバッジをつけ、
いい服を着てかしこそうなことを言いながら、
利権や金を漁るのに汲々としている人間、
金儲けのためなら武器も売るし、
戦争の謀略で夜も日もないという人種、
そういう手合いは「ハズレ」でないのであろうか。

子供が父母ののぞむような仕事につかず、
期待するような結婚をしなかったからといって、
「ハズレ」と呼べようか。

両親はちゃんとした結婚式を挙げることを思い描き、
楽しみにしていたのに、娘は家を出て男と同棲し、
そのうちやがて未婚の母となる。

それは親からみれば「ハズレ」であり、
子育ての敗残者、失敗者、挫折者であるかもしれないが、
しかし、娘からいえば「まっとう」であり「アタリ」の人生を、
歩きつつあるかもしれないのだ。






          


(次回へ)

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