・源氏は夕顔を失った悲しみを、
年月を経ても忘れることは出来なかった。
葵の上(正妻)といい、
六条御息所といい、
気位高く身構えているような女人ばかりで、
源氏は心が休まらぬのであった。
あの夕顔の、
人なつこく、率直で親しみ深かった、
人がらが恋しくてならなかった。
そして源氏は空蝉を思いださずにはいられない。
あの女は心にくい女だった。
それと共に、
空蝉の継娘・軒端萩のことも、
忘れ去ってしまえない性質であった。
左衛門の乳母といって、
源氏が親しみなついた乳母がいたが、
その人の娘で大輔(たゆう)の命婦という、
宮中に仕えている女房がいる。
源氏も宮中で召し使って、
心やすい仲である。
彼女が耳よりな話をもたらした。
もう亡くなられた常陸の宮に、
忘れ形見の姫がいらして、
今は一人で心細くお住まいだという。
命婦は父の縁で折々、
この邸に伺うそうであった。
「姫君のお気だてやご器量は存じません。
ただもう、ひっそりと、
人づきあいもなさらず、
琴だけをお友達としていらっしゃいます」
源氏は好奇心を持った。
「この頃はおぼろ月夜だから、
ちょうどいい。
琴の音を聞かせてくれないか」
命婦は面倒な、
と思ったが、
宮中を下って姫君の邸に伺っていると、
源氏は約束どおり、
十六夜の月の美しい夜、
やってきた。
姫君は庭を眺めていた。
命婦はいい折だと思って、
「こんな宵は、
お琴の音もきっと冴えると存じます。
いつもあわただしく出入りしておりますので、
ゆっくりうかがえませんのが残念で」
とすすめると、
姫君は素直にうなずいて、
琴を弾き出した。
姫君のほのかにかき鳴らす琴の音を、
源氏は遠くで聞いていて、
面白く思った。
達者というのではないが、
荒れ果てた淋しい邸に、
一人物思いに沈みつつ、
住む姫君の琴の音と思えば、
あわれに見捨てがたかった。
源氏が破れた透垣のところまで来ると、
ついと男がそばへ寄ってきた。
「一緒に御所を退出したのに、
私をおまきになったから、
不審でお跡を慕って参りました」
というのは、
頭の中将(正妻・葵の上の兄君)だった。
中将は源氏の秘密を握ったと思い、
得意そうにしている。
何かにつけて張り合うこの親友同士は、
恋の冒険でも抜いたり抜かれたりして、
競い合っていた。
しかし源氏は、
かの頭の中将の思い者だった、
夕顔を密かに盗んだことを、
中将に対して得点をあげたように、
心中思っていた。
それぞれゆくべき所はあったが、
親友同士、離れがたくなって、
一つ車に同乗にて、
左大臣邸へ着いた。
月が美しいので、
管弦の遊びに夜がふけた。
「あちらから、
お返事はありましたか・・・」
とある日、
頭の中将がさぐりを入れた。
常陸の宮邸へ源氏は度々文をやっていたが、
どうやら中将もそうらしい。
「さあ、どうだったかなあ」
と源氏はとぼけたが、
実をいうと源氏の方へもなしのつぶてで、
何だか妙な感じであった。
源氏は変な人柄だなあ、
と思ったが、
しかし頭の中将もなかなか色ごと師なので、
もしや中将の方が口説き落としてしまったら、
残念だ、という気がしていた。
最初に言い寄った源氏の方が、
捨てられた形になってしまうのが、
いまいましいのである。
中将より先に、
常陸の宮の姫君と、
特別な関係になりたかった。
しかし源氏がそのあと、
病気にかかったりしている間に、
春は終り、夏の間は藤壺の宮(継母)への、
物思いに過ぎ、
むなしく日はたってしまった。
秋がめぐってきても、
常陸の宮の姫君への好奇心とあこがれは、
やはりおさえ難かった。
度々手紙を出すが、
依然として返事は来ない。
(次回へ)