「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

35、夕霧 ③

2024年03月22日 08時32分09秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳





(霧の朝の公園)







・泊ると決めた夕霧は、
何かと宮に話しかけつつ、
お取り次ぎの女房が、
宮のそばへ参った、
その後ろについて、
御簾の中へ入ってしまった。

まだ夕暮れだが、
霧が立ち込めて室内は暗い。

宮の方は動転なさって、
北の障子の外へいざり出よう、
となさるのを夕霧は手探りし、
宮をお引き止めした。

宮のお体は、
障子の向こうに入られたが、
お衣装の裾はこちらに残って、
夕霧に抑えられている。

障子は向こうから掛金を、
さすことは出来ない。

宮は震えおののいて、
汗をしとどに流していられる。

女房たちも動転して、
どうしていいかわからない。

「そんなお心とは、
夢にも思いませぬものを」

宮は泣かぬばかりに、
訴える。

「ただこうして、
お側にいるだけです。
私の思いは長年のあいだに、
感じ取って頂けたと思うのです」

夕霧は落ち着いていう。

宮はただ、
夕霧の所業を悔しく思っていられ、
お返事などあるべきもなかった。

「お年にしては、
お聞き分けのない、
稚いご態度です。
思いきわまって、
失礼なことをいたしましたが、
これ以上のことは、
お許しがない限り、
決していたしません。
このまま朽ち果てるものか、
ぜひこの切ない思いを、
聞いて頂きたい・・・
そう思っただけです。
それなのになんとつれない、
冷たいおあしらい。
宮さまのご身分に対しても、
これ以上畏れ多いことは、
いたしません」

夕霧は自分の心を抑え、
きっぱりという。

宮は鍵もかからない障子を、
押さえておいでになる。

夕霧はあえて開けようとしない。

「大丈夫です。
私は開けません」

宮のご様子はお美しかった。

柏木は、
あまり愛せなかったようだが、
宮はやさしく上品な佳人である。

長い物思いに痩せられて、
はかなく、かぼそく、
弱々し気でいられる。

風は心細く吹き、
夜は更けていく。

鹿の鳴き声、
滝の音、
格子を上げたままなので、
入り方の月が山の端にかかる。

「まだ私の心を、
お分かり頂けませんとは、
かえって宮さまのお心が、
浅く思われます。
それなのに、
あまりにも私を、
お蔑みになるのでしたら、
私は自分を抑えきれなく、
なります。
宮さまも一度は結婚を、
経験された御身、
男女の仲をご存じないわけでも、
ありますまい」

夕霧は責める。
宮は、

(わたくしが結婚した身、
だからといって、
言い寄っても許されるような、
心安い言い方をされる)

と悔しく思われた。

なぜこんな不運な目にばかり、
あうのかしらと考えられると、
悲しくて死んでしまいたいような、
お気持ちになる。

「結婚したのが、
わたくしの過ちだとしましても、
どうしてわたくしは、
見下げられなければ、
ならないのでしょう。
わたくしが何か悪いことを、
いたしまして?」

泣きながら宮は、
お話になる。

「これは、
失礼を申し上げました。
しかし一度ご降嫁なさった御身、
再婚なさっても、
なさらなくても、
世間の見る目は同じです。
どうかお心を決めてください」

夕霧は、
宮のおからだへ手をのばし、
月の明るいところへ、
引き寄せようとする。

月はくまなく澄み渡り、
あまりに月光が明るいので、
宮は恥ずかしそうに面を、
そむけていられる。

「どうか夜の明けぬうちに、
お帰り下さい・・・」

宮は追い払うことばかり、
考えていらっしゃる。

夕霧はこのまま、
何もせず帰るのは、
どうも気がかりであるが、
しかし彼は、
出来心で、
女性に手を出すことは、
出来ないたちであった。

宮を心から愛しているので、
宮を強いるのは可哀そうであり、
宮が自分を、
軽蔑されるかもしれないと、
自制した。

「私は露にぬれて帰ります。
あなたと私の名も、
ぬれるでしょう。
それもこれも、
宮さまのつれないお心からです」

宮は、
人に弁解しても、
信じてもらえないような、
この一夜を辛く思われたが、
自分では、
やましいところはない、
と思っていられるので、
凛としたご様子で答えられた。

「露にぬれるのは、
そちらでしょう。
わたくしにまで濡れ衣を、
きせようとなさいますの」

夕霧は恥ずかしくなる。

自分のしたことを反省しつつ、
しかもこうも宮の言われる通り、
実直に従っていても、
あとでどうなるかなど、
さまざま思い乱れて帰った。

夕霧は草一面の露で、
しとどにぬれた。






          


(次回へ)

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