「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

「残花亭日暦」  4

2021年12月05日 07時21分49秒 | 「残花亭日暦」田辺聖子作










2001年(平成13年)

・7月5日(木)

私は結婚したときからすでに四人の小中学生たちがいたから、
毎年の年中行事に忠実だった。

子供たちは私から見ると、
そういうことに全く関心なく育てられたらしかった。

お正月はさておき、
ひな祭り、五月の節句、七夕、クリスマス、誕生祝い、
一切無関係の野育ちであった。

伝統の因習が鳥もちのようにからみついた、
大阪下町の町人育ちから見ると、かえってさわやかだった。

この間、久しぶりにウチへ来た次男が、
(もう四十代のおっさんになっている)

「クリスマスケーキのロウソク、おひなさんのバラすし、覚えてる」

と言った。

それに私が夕食の支度のとき、
必ず白い割烹着をつけていたことも、と言うのだ。
私はそのことを今まで忘れていた。

私は四人の子供たちを私の手に托されたと思ったとき、
私の母がしていたようにしようと思ったのだ。

にわか作りの母親にマニュアル本はなく、
あるとすれば、幼児体験の母の記憶だけだった。

母が女中衆(おなごし)さんたち、姑、小姑たちと共に、
大人数の家族、従業員たちのため着物姿で立ち働いている、
後姿を見て私は育った。

それが母親のあるべき姿のように思い、
私は夕方がくると仕事のペンを置き、着物に着かえ、
白い割烹着を着けて台所に立った。

材料は家政婦さんに買ってもらっている。
その頃の家政婦さんは四、五時くらいまでしか、
いてくれなかった。
私は急ぎ、野菜を炒めたり肉を焼いたり、するのだった。

昭和四十年代初め、
私は週刊誌の連載、中間雑誌の短編、連作など、
多忙だったけれど。

しかし、それさえ次男が思い出話をするまで忘れていた、
というのは、物書きにしては、雑駁というほかない。

わが性、「昨日のことも覚えていない」という夫を嗤えない。
しかし、一面、過ぎ越しことを忘れるからこそ、
今日まで元気に生きられた、という気もする。

その上にもう一つ。
私は苦労や悲愴感、自己憐憫の小説は書けない体質である。

その方面は営業範囲ではないので、
どんどん記憶からとり落としてゆくのかもしれない。

結構、子供たちを叱ったり、あたふたさせられたりして、
苦労した思い出もあるのだが。


・7月12日(木)

直木賞候補作を読み続ける。

パパはご機嫌悪いと思ったら微熱あり。7度2分。
どうしたのかしら。

夜、食事中、「これもお召し上り下さい」
とミドちゃんがお魚の煮つけの皿をパパにすすめると、
虫の居所が悪かったのか、「うるさい!」と言って、
ミドちゃんめがけて箸を投げつけるではないか。

「危ないじゃありませんか」ミドちゃんは叱る。

「危ないからやっとるんじゃっ」言えてる。

みんな納得して笑ってしまったが、
パパ一人、何がおかしいか、という顔。


・7月14日(土)

日中35度。
今日は梅雨明けというが、たいへんな熱帯夜。

オリンピックのチャンス、大阪は逃がし、北京になった、と。
大阪はわりに冷静で、「あかんやろ、思てました」なんて言う。

私は活性化に望みをかけてました、というところ。


・7月17日(火)

上京。
直木賞選考会。

じっくり選考意見を出し尽くしたところで投票。
藤田宣永(よしなが)氏、「愛の領分」が一人勝ち。

大人の領分、というべき中年男女の恋愛小説で、
重厚で奥行き深い佳作。私も満足。


・7月22日(日)

庭のノウゼンカツラ、咲き続く。暑し。
36,5度。裏庭でセミはじめて鳴く。

昨夜、明石の花火大会で雑踏のため、
十人死に百人近い重軽傷者が出たという大事故があった。

楽しい催しが、こんな結果を引き起こすなんて。
新聞は警備の不手際をいう。

それは想像力の不足、というところだろうか。






          


(次回へ)

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