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2001年(平成13年)
・7月5日(木)
私は結婚したときからすでに四人の小中学生たちがいたから、
毎年の年中行事に忠実だった。
子供たちは私から見ると、
そういうことに全く関心なく育てられたらしかった。
お正月はさておき、
ひな祭り、五月の節句、七夕、クリスマス、誕生祝い、
一切無関係の野育ちであった。
伝統の因習が鳥もちのようにからみついた、
大阪下町の町人育ちから見ると、かえってさわやかだった。
この間、久しぶりにウチへ来た次男が、
(もう四十代のおっさんになっている)
「クリスマスケーキのロウソク、おひなさんのバラすし、覚えてる」
と言った。
それに私が夕食の支度のとき、
必ず白い割烹着をつけていたことも、と言うのだ。
私はそのことを今まで忘れていた。
私は四人の子供たちを私の手に托されたと思ったとき、
私の母がしていたようにしようと思ったのだ。
にわか作りの母親にマニュアル本はなく、
あるとすれば、幼児体験の母の記憶だけだった。
母が女中衆(おなごし)さんたち、姑、小姑たちと共に、
大人数の家族、従業員たちのため着物姿で立ち働いている、
後姿を見て私は育った。
それが母親のあるべき姿のように思い、
私は夕方がくると仕事のペンを置き、着物に着かえ、
白い割烹着を着けて台所に立った。
材料は家政婦さんに買ってもらっている。
その頃の家政婦さんは四、五時くらいまでしか、
いてくれなかった。
私は急ぎ、野菜を炒めたり肉を焼いたり、するのだった。
昭和四十年代初め、
私は週刊誌の連載、中間雑誌の短編、連作など、
多忙だったけれど。
しかし、それさえ次男が思い出話をするまで忘れていた、
というのは、物書きにしては、雑駁というほかない。
わが性、「昨日のことも覚えていない」という夫を嗤えない。
しかし、一面、過ぎ越しことを忘れるからこそ、
今日まで元気に生きられた、という気もする。
その上にもう一つ。
私は苦労や悲愴感、自己憐憫の小説は書けない体質である。
その方面は営業範囲ではないので、
どんどん記憶からとり落としてゆくのかもしれない。
結構、子供たちを叱ったり、あたふたさせられたりして、
苦労した思い出もあるのだが。
・7月12日(木)
直木賞候補作を読み続ける。
パパはご機嫌悪いと思ったら微熱あり。7度2分。
どうしたのかしら。
夜、食事中、「これもお召し上り下さい」
とミドちゃんがお魚の煮つけの皿をパパにすすめると、
虫の居所が悪かったのか、「うるさい!」と言って、
ミドちゃんめがけて箸を投げつけるではないか。
「危ないじゃありませんか」ミドちゃんは叱る。
「危ないからやっとるんじゃっ」言えてる。
みんな納得して笑ってしまったが、
パパ一人、何がおかしいか、という顔。
・7月14日(土)
日中35度。
今日は梅雨明けというが、たいへんな熱帯夜。
オリンピックのチャンス、大阪は逃がし、北京になった、と。
大阪はわりに冷静で、「あかんやろ、思てました」なんて言う。
私は活性化に望みをかけてました、というところ。
・7月17日(火)
上京。
直木賞選考会。
じっくり選考意見を出し尽くしたところで投票。
藤田宣永(よしなが)氏、「愛の領分」が一人勝ち。
大人の領分、というべき中年男女の恋愛小説で、
重厚で奥行き深い佳作。私も満足。
・7月22日(日)
庭のノウゼンカツラ、咲き続く。暑し。
36,5度。裏庭でセミはじめて鳴く。
昨夜、明石の花火大会で雑踏のため、
十人死に百人近い重軽傷者が出たという大事故があった。
楽しい催しが、こんな結果を引き起こすなんて。
新聞は警備の不手際をいう。
それは想像力の不足、というところだろうか。
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(次回へ)