「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

「残花亭日暦」  20

2021年12月21日 09時02分13秒 | 「残花亭日暦」田辺聖子作










2002年(平成14年)


・1月15日(火)

十四日、一日保った。
臨終は十四日深夜、十一時三十六分。

たちまち看護士さんたちが、
さまざまのキカイを取り払う。

かねて葬儀社にいわれた通り、
自宅リビングの庭に面した場所に戻される。
人手が多いので病室の整理もあっという間。

お坊さんの枕経、明夜は山手会館で通夜。
身内はそれに備えてひとまず家へ帰った。

あんまり、てきぱきと流れ作業で運ぶので、
感傷や哀感、慟哭の出るヒマもなかった。

ふと気づくと、彼の側には私とミドちゃんだけ。

「あら、いてくれたの?」

「よくおっしゃいますこと。
皆疲れているでしょうから、ひとまず帰って、
明日の通夜、明後日のお葬式と、大変だからって、
おっしゃったではありませんか。
だからあたくし、ご家族とご一緒にひとまず帰ったら、
電話なさって“アンタ、なんでここにいないのっ!”
とお叱りでしたから、急いでかけつけましたのよ・・・」

「へ~え、そんなこと言いましたっけ?」

「あたくしだって、クタクタですけど、
大先生(パパのこと)もお気の毒ですし、先生も気になって」

おぼえてなかった。
この私としたことが。
でも彼女がいてくれてよかった。

老母の部屋でも、
U夫人たちが代わる代わる寝ているらしい。

花とローソク、線香の匂い、
彼の顔は肉こそ落ちているものの、
とてもきれいですべすべしていた。

いかにも浮世の苦を脱し、安堵したみたい。
私はどこか壊れているのかもしれない。

悲しいとかうつろという気もなく、
ミド嬢が泣きながら彼に話しかけるように、

「あんなに帰りたがっていらしたおうちですわ、大先生。
やっとお帰りになれて、よろしゅうございましたこと」

と言うのにつられて少し涙が出たが、
それは釣られ涙、というものだった。

電話が鳴る。
夜は白みかかっている。
遠くの親戚たちに報せが届いたらしい。

今日は十五日。
朝から人が来てくれる。

出勤前に寄る友人ら、

「今夜の通夜の手伝いの打ち合わせもあるから、
今日は早退するよって」なんて。

直接、山手会館へ行く、と、電話FAX繁し。
弔電来る。

山手会館へ向かう。
タクシーの手配は男たち、印刷物の手配、新聞社からの連絡。

彼の略歴などはキタノさんが引き受けて下さっているから助かる。
喪主は私なので、喪主挨拶というものをしなくてはいけない。

通夜ご挨拶、ご会葬御礼、
これは葬儀社の印刷物があり、
葬祭産業はしごく機能的に運営され、
遺族にとっては便利だ。

納棺、彼の愛用していた冬のコーデュロイの上衣も入れた。
緊張しているからか、私は泣けない。

きれいなお顔、と言って女たちは泣き、
男たちはたまらず外で出るのもいる。

「楽になったぜぃ。アンタも早よこんかい」

と言わんばかりの彼の顔。

「う~む、だろうなあ。
けど、もうちょっと待ってよ」

と思うばかり。

通夜の室へ納め、お棺のフタが開けられて、
花で埋まった彼の顔を見ていると、
ずっとずっと遠い昔、
私がやっと売り出しかけたころのことを思い出す。

彼は近所のお医者さん仲間の集まりに出た時、

「カワノ先生(せんせ)、奥さん儲けはったら、
いよいよ男のあこがれの生活が待ってまっしゃないか」

とからかわれ、

「ヒモかい。
ボクはヒモ、ちゅう、可愛(かい)らしいもんやないデ。
ま、ワイヤーロープやろな」

と言って、一座を爆笑させた、と嬉しそうに言っていた。

ゴルフ仲間、酒飲み仲間、いいお友達ばかりで、
彼は楽しそうだった。

すると涙が出てきた。
しかし涙はすぐ引っ込む。

東京から続々、出版社の編集者たち、
社長さんらまで顔を見せて下さる。

喪服に数珠を手首に巻き、走り回っている私。

六時、通夜の受付が始まる。
女性編集者らも次々に。

ムラタちゃんはお棺に取りすがって泣いてくれた。
おっちゃんの可愛がった女性の一人だった。






          


(次回へ)

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「残花亭日暦」  19 | トップ | 「残花亭日暦」  21 »
最新の画像もっと見る

「残花亭日暦」田辺聖子作」カテゴリの最新記事