・私が子育て論を書きたいと思ったもう一つの理由は、
まさに、娘の育て方にある。
現代(昭和五十年代、
現在BSで再放送中の「芋たこなんきん」と同時代)
においては女の子の育て方は、
男の子の育て方より、深い混迷の中にある。
いまは、女の子のほうがずっと生きむずかしい世の中、
しかし、そのかわり、男の子の何倍もの、
深い歓びを味わえる生き方ができるのではないか。
さまざまの可能性のあること、
男の子よりずっとチャンスが多い、といえそうだ。
その部分に全く気付かず、
世の男親、女親の多くは、
「女の子だから進学はほどほどに・・・」
「なんたって女の子の進路は、
そう気をつかわなくてすむ」
などといっている。
私はそういう人たちの言葉を聞くたび、
(せっかくの人生の楽しみ、
神様のすばらしい贈り物の価値に気付かず、
それをおろそかに使い捨ててしまうのだなあ)
と心淋しく思わずにはいられない。
私は、男の子と女の子で育て方をちがえる、
というやりかたには賛成ではない。
人間としての成熟に手をかす方法に、
男女差別があってはいいわけではない。
社会生活にとけこめるように躾ける、
それも男女同権であるべき。
しかしまだまだ日本社会では、
女の子の育て方は、
ある部分でやたら余計な圧力が加わり、
ある部分では必要以上になおざりにされている。
それで、私は女の子の育て方を考えてみたいのである。
女の子はさまざまのチャンスがあり、
夢があること男の子以上である。
その子の持って生まれた特性を充分活かせるよう、
才なり徳なりが開花するようにみちびいてやれば、
これから先の社会で、
女の子はどれほどみのり多い人生を送れるか、
しれはしない。
「女の子は、いずれヨメにいってしまうから、
それを思うと、力を入れるのもつまらなくて」
という親がいるが、
それならヨメになどやらなければよい、
という考えで育ててみるといい。
女の子を育てる時、
なぜ日本の親は、まず将来の結婚を、
子育ての根本命題に据えるのだろうか。
女の子から「いずれ結婚するのだから」
という大前提をとってしまえば、
どんなに身軽でいきいきするかしれない。
結婚みたいなもの、
いつだってできるのだ。
誰だってできるのだから、
何十年も先のことを今からバカの一つ覚えに、
唱えることはない。
幼いうちから男の子も女の子もいっしょに、
家の手伝いをさせる、ということはぜひ躾けてほしい。
男の子に皿洗いもさせず、
洗濯機の使い方もさせず、
お使いもさせず、
庭掃除もさせず、
そういうもろもろの家庭の雑事は、
女の子ばかりにさせる、
あれも一切、やめてほしい。
勉強がどうのこうの、
なんてこと知ったこっちゃない。
(このへんが、自分で子育てしていない人間の強みで、
言えることである)
少々の成績より、
自分で生活できる力を持っていることが、
人間の強みである。
ごはんは台所から湧いて出るものではなく、
茶碗は勝手に流しへいってきれいになるものではない、
ということを子供のうちから、
男女ともに叩き込んでいただきたい。
その方が男の子にも女の子にも将来、
身について役に立つのだ。
「男の子は、末は大臣になるかもしれないのだから、
皿洗いなどさせられない」
という親もいるだろうが、
何をアホなこというてはりますか、
というところである。
みそ汁の一つもすぐ作れて、
ごはんを炊いて、
即席のうまい食事くらい作れる大臣でなければ、
少なくとも、
「今は忙しいが、若い時はやっていたから、
作ろうと思えばやりますよ」
という男でなければ大臣なんかさせられない。
(次回へ)