むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

12、澪標 ⑤

2023年10月10日 08時42分25秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳










・かの、若い乳母、宣旨の娘は、
都から明石へ下ることを淋しく思っていたが、
いまはすっかりこの地に馴染んでいた。

それというのも、
仕える明石の君の、
やさしく奥ゆかしい人柄に、
傾倒したためであった。

明石の君もこの乳母が好きになった。

仕える女房たちには、
この乳母に劣らぬ身分の人もいたが、
それらは宮仕え女房の落ちぶれて、
尼にでもなろうかというような、
くすんだ者たちばかりだったから、
乳母はひときわ目立った。

まだ若々しく、美しくて、
上品でもあり、気位も高かった。

話題も豊富で、
都の噂や、源氏のようすなど、
女らしい興味の動くままに、
それからそれへと話す。

明石の君はそれを聞いて、
あらためて源氏の社会的位置を知らされた。

田舎にいては世間がせまく、
何も知らずに過ぎるところだった・・・

(それにしても、
あの方の子供を持ったことは、
わたくしの運が強かったのかもしれない)

と明石の君は思った。

無心に眠る小さい姫君を抱きあげて、

「ちい姫さん。
あなたのお父さまは、
天下第一の人の源氏の大臣なのよ」

と笑みを浮かべる。

赤子の姫は、
「小さい姫君」というので、
「ちい姫さま」と呼ばれていた。

五十日の使いに托された源氏の手紙を、
乳母も見せてもらった。

源氏の手紙の最後に、

「乳母はどうしていますか」

とこまやかにたずねてあって、
乳母はなぐさめられる気がした。

明石の君の返事は、

「ちい姫の五十日の祝い、
田舎住まいのこととて、
ひっそりしたものでございました。
でも、あなたのお使いのおかげで、
うれしく存じました。
それにつけても、
ちい姫のことをよろしくお願いいたします。
どうか、あの子の生い先に、
不安のありませぬように、
あなたのおやさしいお心で、
おはからい下さいまし」

源氏は明石の君の手紙を、
くり返し読み、吐息をついた。

明石の君は不安定な位置で持った、
不安定な子供に、心細い思いをしている。

彼女の頼るのは遠く離れた源氏だけだった。

源氏が手紙を手にして考え込んでいるのを、
紫の君は横目で見て、

「わたくしはのけものなのね。
いいのよ・・・」

とつぶやく。

紫の君のご機嫌取りばかりしている源氏は、
花散里を訪れるひまもない。

気の毒に思うのだが。

公務も多忙で、
内大臣ともなれば、
気軽に外出もできない。

五月雨のつれづれなるころ、
公私ともにひまが出来たので、
源氏は思いだして花散里を訪問した。

訪れない時も、
源氏は生活の庇護はしているし、
彼女も源氏をたよりにしている。

家はいよいよ荒れて、
すさまじいくらいになっている。

姉君の女御の君にまずご挨拶して、
源氏は妹の花散里の部屋へ行った。

夜がふけて、朧月が軒からさし入る。
そんな明るいところで、
源氏と向き合うのが、
恥ずかしかったけれど、
そのまま迎えた。

そういうおっとりした、
うちとけた彼女の態度は、
好ましいものであった。

「まさか、訪れて下さるなんて、
思いませんでした。
いつ扉を開けても入ってくるのは月ばかり」

花散里は、源氏の足の遠いのを、
やわらかく恨む。

彼女が源氏の流浪中、
ひたすら恋焦がれて待ち暮らしていたのを、
源氏はよく知っており、
決しておろそかに思っていなかった。

源氏は、気がねない邸を作って、
こういう恋人たちを集めたいと思った。

もし、紫の君に姫でも生まれたら、
こういう人たちを後見にすれば、
親身に仕えてくれるだろう。

それで二條院の東の院の工事を、
急がせていた。






          


(次回へ)

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