・かの、若い乳母、宣旨の娘は、
都から明石へ下ることを淋しく思っていたが、
いまはすっかりこの地に馴染んでいた。
それというのも、
仕える明石の君の、
やさしく奥ゆかしい人柄に、
傾倒したためであった。
明石の君もこの乳母が好きになった。
仕える女房たちには、
この乳母に劣らぬ身分の人もいたが、
それらは宮仕え女房の落ちぶれて、
尼にでもなろうかというような、
くすんだ者たちばかりだったから、
乳母はひときわ目立った。
まだ若々しく、美しくて、
上品でもあり、気位も高かった。
話題も豊富で、
都の噂や、源氏のようすなど、
女らしい興味の動くままに、
それからそれへと話す。
明石の君はそれを聞いて、
あらためて源氏の社会的位置を知らされた。
田舎にいては世間がせまく、
何も知らずに過ぎるところだった・・・
(それにしても、
あの方の子供を持ったことは、
わたくしの運が強かったのかもしれない)
と明石の君は思った。
無心に眠る小さい姫君を抱きあげて、
「ちい姫さん。
あなたのお父さまは、
天下第一の人の源氏の大臣なのよ」
と笑みを浮かべる。
赤子の姫は、
「小さい姫君」というので、
「ちい姫さま」と呼ばれていた。
五十日の使いに托された源氏の手紙を、
乳母も見せてもらった。
源氏の手紙の最後に、
「乳母はどうしていますか」
とこまやかにたずねてあって、
乳母はなぐさめられる気がした。
明石の君の返事は、
「ちい姫の五十日の祝い、
田舎住まいのこととて、
ひっそりしたものでございました。
でも、あなたのお使いのおかげで、
うれしく存じました。
それにつけても、
ちい姫のことをよろしくお願いいたします。
どうか、あの子の生い先に、
不安のありませぬように、
あなたのおやさしいお心で、
おはからい下さいまし」
源氏は明石の君の手紙を、
くり返し読み、吐息をついた。
明石の君は不安定な位置で持った、
不安定な子供に、心細い思いをしている。
彼女の頼るのは遠く離れた源氏だけだった。
源氏が手紙を手にして考え込んでいるのを、
紫の君は横目で見て、
「わたくしはのけものなのね。
いいのよ・・・」
とつぶやく。
紫の君のご機嫌取りばかりしている源氏は、
花散里を訪れるひまもない。
気の毒に思うのだが。
公務も多忙で、
内大臣ともなれば、
気軽に外出もできない。
五月雨のつれづれなるころ、
公私ともにひまが出来たので、
源氏は思いだして花散里を訪問した。
訪れない時も、
源氏は生活の庇護はしているし、
彼女も源氏をたよりにしている。
家はいよいよ荒れて、
すさまじいくらいになっている。
姉君の女御の君にまずご挨拶して、
源氏は妹の花散里の部屋へ行った。
夜がふけて、朧月が軒からさし入る。
そんな明るいところで、
源氏と向き合うのが、
恥ずかしかったけれど、
そのまま迎えた。
そういうおっとりした、
うちとけた彼女の態度は、
好ましいものであった。
「まさか、訪れて下さるなんて、
思いませんでした。
いつ扉を開けても入ってくるのは月ばかり」
花散里は、源氏の足の遠いのを、
やわらかく恨む。
彼女が源氏の流浪中、
ひたすら恋焦がれて待ち暮らしていたのを、
源氏はよく知っており、
決しておろそかに思っていなかった。
源氏は、気がねない邸を作って、
こういう恋人たちを集めたいと思った。
もし、紫の君に姫でも生まれたら、
こういう人たちを後見にすれば、
親身に仕えてくれるだろう。
それで二條院の東の院の工事を、
急がせていた。
(次回へ)