「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

「わたしの震災記」 ⑫

2023年01月23日 09時28分11秒 | 「ナンギやけれど」   田辺聖子作










・死者の半分は老人、それも独居老人が多い。
子供たちは独立して巣立ってゆく。

老人は長年住み慣れた土地を離れず、
古い巣を守って夫婦で、あるいは一人で暮らす。

長いつきあいで気ごころの知れた町の人々、
下町の便利さ、家は老朽しているけれども、
いまのところ住むのに何の不便もない、
このままここでお迎えを待とう。

そういう老後はどんなに安気で楽しかったことか。

一瞬でその幸福は奪われる。
七十歳代、八十歳代の人々は苛酷な戦争を生き延びた人だ。

働きぬいてやっと終りの幸せを手にいれたところなのに。

瓦礫から掘り出された遺体は咽喉まで砂が詰っていた、
という報告もあった。

肺まで煤で黒かったという人も。
埋もれたまま焼死したのだ。

阪神高速道路神戸線の倒壊部分は、
私の通ったときすでに綺麗に除去されていた。

六百メートルにわたる横倒しの、
高速の残骸は十五日後に片づけられたらしい。

そのとき走っていて落下した車の残骸も、むろん、ない。
トラックにミカン箱を積んだのが一台あった。

運転手は即死、
運転台に赤ちゃんを抱いた愛妻の写真があった、と。

尋ね人はめざす芦屋の避難所にはいず、
別の場所へ移ったらしいが、
一家無事で元気、ということがわかって、
ひとまず安心。

私たちはそこで避難者とまちがわれ、

<お弁当あげます、持っていって下さい>

とメガホンの青年にいわれた。
ボランティアの人々であろう。

私は、

<いいえ、われわれは違いますからよろしいのです。
どうぞ被災なさったかたに>

といって出てきたが、
浜側の公園でも大学生らしい青年に呼び止められた。

松林の続く芦屋川沿いの風光明媚なところ、
長い行列ができていたが、談笑する人もなく、
男も女も老いも若きも静かに行列し、
少しずつ進んでいる。

品のいい風采の人が多く、おだやかな表情、
松林の冬の日だまりを楽しんでいるような人すらいる。

いかにも高級住宅地の芦屋の住民らしいが、
<救援物資の生活用品を配っています>
というボランティアの呼びかけと、
とても不似合いな印象だった。

しかし芦屋も避難者はピーク時で一万六千人に達し、
四百人あまりの死者を出している。

全半壊家屋は四千戸に及ぶ。

神戸の長田区や東灘区の罹災ニュースに隠れているけれど、
芦屋でもっとも大きな被害を受けた津知町など、
死者五十五人をかぞえ、
損壊を免れた家はなかったという。

その長田区は地震に加え、火災で焼き払われて、
さながら五十年前の空襲のあとを現出した。

テレビで何度も放映されたから、
あまりにも有名になってしまったけれど、
実際に見ると焦土の面積が広いのがよくわかり、
テレビ画面よりはるかに凄惨である。

不要不急の車が走ってはいけないと思い、
私は、西へ向かって車を走らせなかった。

一日、神戸へどうしても行く用事ができて、
そのついでに長田を通った。
もう晩夏になっていた。

瓦礫はすっかり片づけられ、
赤茶けた曠野が目路の限り続く。

焼けたビルばかりがぽつんぽつんと残る。

ここにはもう何ヶ月も前の西宮や芦屋で、
崩壊した家の傾いだ壁に貼ってあった、
「〇〇 一家無事、立退き先、どこそこ」
という、人間味あふれる雰囲気はない。

非情な土地である。

ただ、あちこちにぽつんぽつんと花が置かれている。
ガラス瓶や缶に活けられ手向けの花。

そこで亡くなった人たちに、
遺族の思いをこめたものだろう。

目をあげると、
花は点々と焦土のあちこちに見えるではないか。
それがあまりにも多い。

なんとたくさんの死者たち。
辛いけれどもやさしい眺め。

あきらめきれぬ生者たちは、
死者たちをなぐさめて炎天下に花を運ぶ。

ここでは生者もすでに死んでいるようであり。
死者はまだ生きているようである。

目をさえぎる一物もない焦土は、
非情ではあるが、でも空襲よりはましだろうか。

一見、空襲のあとに似ているが、
空襲のときは花を手向け、
水を供えてやる余裕すらなかった。

残った生者も、いつあとを追うかもしれなかった。
絶望と虚脱となげやりな気分が人々を支配していたが、
元気のあるのは軍需産業の幹部と高級軍人だけだった。

戦争末期の国民は飢えて何も考えられず、
行動する力もなかった。

希望もなく、絶望と憎悪だけがあった。
情報もなく、男たちもいなかった。

それらに比べれば、
この焼け跡はずっと人間らしくて温かい。

そして偶然のことで生き残った私たちも、
非命に撃たれた人に手を合わせることができる。

点々と供えられる花。

ここにあの人は、あの子は、生きていました。
それを訴えるあかし。

テレビに延々と出る犠牲者たちの氏名。
やさしい世の中になった。
名前が残るのだ。

遺族たちが、これこれの名のものが死にました、
と言揚げできる。






          

(次回へ)

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