・この前、私はカンボジアのことを書いたが、
あのあと、朝日新聞に「朽ちゆく遺跡群」として、
カンボジアの近況が紹介されていた。
(1983年5月16日付)
アンコールトムもアンコールワットも、
強い日ざしや豪雨にさらされ、
傷みがはげしいという。
美しい浮彫の舞姫に無惨な亀裂が走り、
何より私がショックを受けたのは、
アンコールワットの正面入り口の石畳、
これがすばらしい敷石の参道で、
幅は10m、長さは500mある、
その参道の半分が崩れ、
石積みは崩壊しはじめていることだった。
1964年暮れから1965年正月にかけて私が見た、
アンコールワットは壮大で優美だったが、
いまその偉大な石造建築は風雨と戦乱に侵されて、
破壊されようとしている。
新政権は民生の安定がやっとで、
とても遺跡の修復まで手がまわらないらしい。
無惨にひび割れた参道を見て、
(この国では、人も石も悲劇の受難者だった)
悲しく思わずにいられなかった。
ただ救いは、
カラー写真の人々の笑顔だった。
ポル・ポト政権時代の惨劇からやっと生きのびた人たちが、
お寺ではお坊さんを中心に集まって、供養し、
あるいは結婚式をあげていた。
お寺とお坊さん!
それに人々の集まり!
この何でもないことが、
ポル・ポト政権の恐怖政治時代には禁じられていた。
寺院は殺処刑場の場となり、
僧侶は殺され、
人々は集会も私語も笑いも禁じられていた。
現政府(ヘン・サムリン政権・・これも社会主義体制である)
になってやっと、
人間らしい暮らしがよみがえったように見える。
その新聞記事にはまた、
民衆がお寺まいりや結婚式、葬式を、
普通通りに行うようになったため、
お坊さんが足りないともあった。
1970年ごろ全国に8万人いたとされる僧侶は、
ポル・ポト時代にほとんど殺された。
ポル・ポト政権は、
宗教を認めなかったから。
生き残ったのはわずかに2500人、
いま仏教がよみがえった国で、
僧侶の養成がいそがれているという。
私はさまざまな感慨に打たれた。
人はなぜ私が縁もゆかりもないカンボジアに、
そんなに関心を払うのかと、
いぶかしく思われるかもしれない。
以前にも書いたけれど、
19年前に訪れた、それもほんの2,3日滞在したこの国が、
私には強烈な印象だった。
カンボジアは美しい国だった。
乾季という季節の条件もあったが、
空はあくまでも澄み、
花々は咲き乱れ、
ジャングルの緑濃く、
クメール人(カンボジア人)は男も女も美しくて、
仏教徒らしく物越しがやさしかった。
シェムレアプの町をそぞろ歩いていると、
家々は南方海上諸島によくあるように、
みな高床だった。
涼し気な開け放しのその家に、
人々はゆったりと午睡していた。
物の影の濃い真昼、
町は静かだった。
小川にアヒルが人と共に水浴びしていた。
お寺の仏像前には花が供えられ、
小学校のそばを通ると、
子供たちが澄んだ声を合わせて、
リーダーを読むのが聞こえた。
そして国家元首は、
このおだやかな心の民衆に敬慕されている、
シアヌーク殿下であった。
外交手腕のあるシアヌーク殿下は、
戦火に包まれているインドシナ半島の中で、
唯一この国を安泰に維持していた。
カンボジアは地味も肥え、
くだものもあふれるばかりに実る。
トンレサップ湖は魚と米を惜し気もなく人々に恵む。
カンボジアは飢えを知らぬ国といわれ、
東南アジアの中で唯一米の輸出国だった。
いつかもう一度行きたいと思い続け、
月日を重ねていた。
そのうち、インドシナの戦火は、
ついにカンボジアを捲き込んでしまう。
(次回へ)