むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

13、カンボジアに何が ①

2022年08月02日 08時41分25秒 | 田辺聖子・エッセー集










・この前、私はカンボジアのことを書いたが、
あのあと、朝日新聞に「朽ちゆく遺跡群」として、
カンボジアの近況が紹介されていた。
(1983年5月16日付)

アンコールトムもアンコールワットも、
強い日ざしや豪雨にさらされ、
傷みがはげしいという。

美しい浮彫の舞姫に無惨な亀裂が走り、
何より私がショックを受けたのは、
アンコールワットの正面入り口の石畳、
これがすばらしい敷石の参道で、
幅は10m、長さは500mある、
その参道の半分が崩れ、
石積みは崩壊しはじめていることだった。

1964年暮れから1965年正月にかけて私が見た、
アンコールワットは壮大で優美だったが、
いまその偉大な石造建築は風雨と戦乱に侵されて、
破壊されようとしている。

新政権は民生の安定がやっとで、
とても遺跡の修復まで手がまわらないらしい。

無惨にひび割れた参道を見て、
(この国では、人も石も悲劇の受難者だった)
悲しく思わずにいられなかった。

ただ救いは、
カラー写真の人々の笑顔だった。

ポル・ポト政権時代の惨劇からやっと生きのびた人たちが、
お寺ではお坊さんを中心に集まって、供養し、
あるいは結婚式をあげていた。

お寺とお坊さん!
それに人々の集まり!

この何でもないことが、
ポル・ポト政権の恐怖政治時代には禁じられていた。

寺院は殺処刑場の場となり、
僧侶は殺され、
人々は集会も私語も笑いも禁じられていた。

現政府(ヘン・サムリン政権・・これも社会主義体制である)
になってやっと、
人間らしい暮らしがよみがえったように見える。

その新聞記事にはまた、
民衆がお寺まいりや結婚式、葬式を、
普通通りに行うようになったため、
お坊さんが足りないともあった。

1970年ごろ全国に8万人いたとされる僧侶は、
ポル・ポト時代にほとんど殺された。

ポル・ポト政権は、
宗教を認めなかったから。

生き残ったのはわずかに2500人、
いま仏教がよみがえった国で、
僧侶の養成がいそがれているという。

私はさまざまな感慨に打たれた。

人はなぜ私が縁もゆかりもないカンボジアに、
そんなに関心を払うのかと、
いぶかしく思われるかもしれない。

以前にも書いたけれど、
19年前に訪れた、それもほんの2,3日滞在したこの国が、
私には強烈な印象だった。

カンボジアは美しい国だった。

乾季という季節の条件もあったが、
空はあくまでも澄み、
花々は咲き乱れ、
ジャングルの緑濃く、
クメール人(カンボジア人)は男も女も美しくて、
仏教徒らしく物越しがやさしかった。

シェムレアプの町をそぞろ歩いていると、
家々は南方海上諸島によくあるように、
みな高床だった。

涼し気な開け放しのその家に、
人々はゆったりと午睡していた。

物の影の濃い真昼、
町は静かだった。

小川にアヒルが人と共に水浴びしていた。
お寺の仏像前には花が供えられ、
小学校のそばを通ると、
子供たちが澄んだ声を合わせて、
リーダーを読むのが聞こえた。

そして国家元首は、
このおだやかな心の民衆に敬慕されている、
シアヌーク殿下であった。

外交手腕のあるシアヌーク殿下は、
戦火に包まれているインドシナ半島の中で、
唯一この国を安泰に維持していた。

カンボジアは地味も肥え、
くだものもあふれるばかりに実る。

トンレサップ湖は魚と米を惜し気もなく人々に恵む。

カンボジアは飢えを知らぬ国といわれ、
東南アジアの中で唯一米の輸出国だった。

いつかもう一度行きたいと思い続け、
月日を重ねていた。

そのうち、インドシナの戦火は、
ついにカンボジアを捲き込んでしまう。






          


(次回へ)

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