むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

「残花亭日暦」  8

2021年12月09日 08時54分10秒 | 「残花亭日暦」田辺聖子作










2001年(平成13年)

・8月29日(水)

東京、読売ホールで講演。
「源氏物語の世界」


・8月30日(木)

今日もテレビ出演のため、再泊。
ホテル前の坂を上がって行くと、もう秋の風だった。

老母の足と腰痛はどうなったのか?
留守宅に来てくれる人を頼んでいる。

病院のパパはどうだろう?
再検査して良性であればいいが。

誰もみなやっている苦労ではあろうけど、
作戦参謀としてはあれこれ戦術を考えないといけないのである。

<いささかの苦労しましたといいたいが 苦労が聞いたら怒りよるやろ>

ひとりよがりの歌である。
更に大きい苦労が前途に待っているかもしれぬのだ。


・8月31日(金)

午後帰宅してすぐ病院へ。
病状は更によくなく、やはり悪性だった。


・9月4日(火)

夕方、義弟が奥さんを伴って、私を迎えに来た。
ミドちゃんと乗る。

車種は車に疎い私には不明だが、
新しすぎて乗り心地はイマイチ。

しかしそれは、車内にひびくハードな音楽のせいかもしれない。
音量もかなりのものだったが、これは人サマの趣味であるゆえ、
口をさしはさみかねる。

しかし、担当の部長先生の診断結果を聞きに行くという、
ただ今の状況には、少し不釣り合いの気もした。

先生は、腺ガンで悪性と言われる。
レントゲンフィルムを見せて頂いても、よくわからず、
「丸山ワクチンは」と私が言ったら、義弟は、
「いや、F先生にすべて任せて」と言い、
私は義弟を信頼して任せることに。


・9月5日(水)

夏物を秋、冬物と入れ替え。
厚手のパジャマ、長袖シャツを病院へ持って行く。

今日は初めての放射線治療の日。

しかし、さほど疲れたように見えず、
私は桃の果肉を刻んだものをカップにいっぱい入れ、
さじですくって食べさせた。

夫ははっきりした声で聞く。

「いつ帰れるねん。ワシ病気かいな」

マトモな顔でマトモな質問だった。
ほんとにわからないのかしら。

義弟はこの前、病室に入るなり、
夫がにっこりしたというので、
それがとてもうれしかった、と言い、
「あたまは大丈夫やな」と言っていたが、
今日の質問でそれも心もとなく思われる。

私は冗談ではぐらかすことも出来ず、
「そうよ、パパは病気なのよ」と言うと、涙が出てしまった。
パパは考えながら桃を食べている。

彼の習性として、自分の病状に無関心という特徴があるが、
その線上だろうという気もした。

私は気を取り直して、私の描いた画を見せた。
この前、別荘へ行ったときの、黄色コスモスに包まれた山荘の絵。

「どう、きれいでしょう?
また行きましょう。コスモス、散ってるかもしれないけど」

彼は「うん」と言う。

「あたしの絵、いかがですか?」

「天才!」

ミドちゃんは半身をパパに向け、

「あたしはどうですか、大先生」

「凡才」

大笑いする機会を与えられて、私はとても嬉しかった。


・9月8日(土)

夕べ久しぶりにぐっすり眠れて、
やっと心身に力がみなぎるのを覚えた。

6日は神戸の朝日会館で「川柳の世界」というタイトルで講演。
どんな時でもそらでしゃべるのだけど、一応のメモは持って出るが、
そのメモを忘れた。でもいつものようにしゃべれて、
皆さんに喜んでもらえてホッとしたが疲れた。

この頃、老母のため、
夜、そばにいてもらえる人を頼むことにした。

母は寝室にヨソの人がいると寝にくいだのと心配するが、
私が傍についているわけにもいかないので、
人手を確保しておく必要があるのだった。

元気な中年のSさんは、母の拒否にあって戸惑っているが、
山口県出身の由。

母は岡山なので、お国なまりが少し似ている。
母はそれで少しずつ心を開いた。

山陽道の方言の特徴は、粘稠度が高く、抑揚がきつい。
「大体」を「でぇてぇ」と発音する。

Sさんは気のいい人で、

「私は病院ばっかりやったけぇ、家庭は不向きですが」

と言いながら、母の面倒を見たり掃除をしてくれる。
夕食前に来て、朝食前に帰って、昼間の人とバトンタッチする。

私は出張が多いので、これで後顧の憂いなく動ける。
もう、人件費がどうのといっていられない。
とにかく戦時体制に突入したのだ。

昨日、病院へ行くと、パパはわりあい元気で、
食欲があるのが頼みの綱で、食べ物の話をすると、
「カツカレーが食べたい」と。

私とミドちゃんは気持ちが明るんで、
「うん、持って来るね」と弾んだ。


・9月9日(日)

ヤナちゃんの作ってくれたカツカレーを昼に病院に運ぶ。
パパとUさんは喜んで食べてくれた。

何だか気分が明るんで、みんなうまくいくような気がした。
今日はミドちゃんがお休みで、私は空の容器を持ってタクシーで帰った。

病院通いも長くなりそうな気がする。






          


(次回へ)

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