・五月になった。(今の六月、梅雨どき)
空はどんよりと曇り、
家々の軒や廂にはびっしりと菖蒲が葺かれ薬玉が奉られる。
作るのは、若い女房たちや、
定子中宮のお妹姫、内裏へ入られている末の姫で、
この方は中宮によく似ていられる、十五、六の美しい方である。
中宮にはご一門から献上してきた薬玉と、
田舎住みなさっている伯父君の明順(あきのぶ)ぬしからの、
献上物をさし上げる。
これはまだ青い麦をついて作った菓子で、
胃によいとされている。
それにしても、このごろ中宮は、
少しお気の弱りをもらされるようになったのではないか?と感じる。
おん乳母の大輔の命婦(母君の妹)、
この人が夫の転任で日向へ下ることになった。
この人は乳母としての役目よりも、
夫や子供の方に人生の関心が深い人で、
私はあまり好きではないが、
中宮を置いて日向へ下るという。
中宮からはさまざまの贈り物が下されたが、
その中に扇があった。それへ中宮おんみずから筆を取られた。
<茜さす日に向かひて思ひ出でよ 都は晴れぬながめすらむと>
(日向・・・明るく日に向かう国、
日に栄える国へあなたは行くのね。
日向にいても私のことを思い出してね。
都では晴れぬ思いで泣き沈んでいる者もいると・・・)
その扇を命婦はどんな思いで見るのやら、
私なら、そんなお歌を拝したら下向を止める。
この君を置いてどこへも行けるものか、
私は泣けてきた。
じめじめした涙、結ばれぬ思い、
そういうものを嫌っていらした中宮が、
今はじめて洩らされた重い重い吐息、
ご妊娠中の不安定なお心がそうさせるのだろうか。
この頃は私をお側からお離しにならない。
ところが摂津の棟世から連絡があった。
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・「娘が清水寺へお詣りしたいというので、
自分はついて行けないが、
もしよければ清水寺で会ってくれないか。
以前から娘はあなたに会いたがっていた」
と言って来たのだ。
例によって田舎の贈り物、
干した貝やら魚、わかめ、それに珍しい白珠(真珠)、
平絹の反物、美しい貝殻細工などどっさり贈ってきた。
私は好奇心もあって棟世の娘に会いたかった。
暑い夏でみな代わる代わる休みを頂いて里下りしている。
清水寺なら気心のしれた僧もおり、
しばらくおいとまを願うことにした。
「早く帰って来て。少納言の声が聞けなくなると淋しい」
と中宮は仰せられる。
「中宮さまのご安産をお祈りして来ます」
私は心から言った。
清水寺は木々が茂っていてやや涼しかった。
棟世の娘一行は一つの僧坊を借りていたが、
私の僧坊の方が広くながめもよく、涼しいので、
こちらへ来るように迎えを出した。
供の女房や若侍たちと一緒にその娘はやって来た。
私が、
「お目にかかれてうれしいわ。
お父さまからおうわさはいつもうかがっていたの。
こちらへいらしてお顔を見せて」
と言うと素直に寄って来た。
思った以上に美しい娘である。
十六になったと言う。
「安良木(やすらぎ)といいます」
と言う声も愛らしかった。
娘のたたずまいがいかにも純真そう、
なのが気に入り好きになった。
「ずっとせんから、
父が持っていた『春はあけぼの草子』を読んで、
あこがれていました」
「あなたは物語や絵がお好き?」
「はい。手に入るとすぐ読んでしまいます」
何よりすずやかな透き通る声が美しい。
撫子がさねの表は紅梅色、
下は青い衣装も田舎びていなくてかわいい。
「私の口から申すのもなんでございますが、
どうかひいさんをよろしくお願いいたします・・・
私は大事なひいさんを宮仕えさせ申すのは、
気がすすまないのでございます。
私どもは昔人間でございますから、
女と鬼は人に姿を見せるものではない、
と言われて育ったんです」
私はよく太った四十くらいの乳母の多弁さに閉口しながら、
「どういうことなの?安良木さんが?」と聞くと、
「話があとさきになってごめんなさい」
娘は言った。
「おばさま(私)にお願いして、
わたくし今度ご入内なすった中宮さまにお仕えしたいんです」
「彰子の宮さま?」
「はい。十三になられるとか。
わたくし、うらやましくて。
父について摂津へ参りましたが、
父はこの頃やっと、
『好きにするがよい、
おばさまの伝手(つて)で道が開けるかもしれない』
と言ってくれました。
おばさまは皇后の宮にお仕えなのに、
失礼かもしれませんが・・・」
私は娘の言うことがよくわかった。
私も彼女の年ならそう思うに違いない。
今、世間の娘たちが熱い視線を注ぐのは、
お若く美しい彰子新中宮であった。
「大殿(道長)の君の北の方、倫子の君にお仕えする、
赤染衛門とはおつきあいもあるし、
古い女房の兵部のおもとという方も知っています。
早速、当たってみましょう」
私は言った。
娘は眼をみはり、それは明るい輝きを増した。
乳母は、
「私は反対していたのでございますよ。
ひいさんは家庭にこもって幸せな結婚をなすって、
よい婿君と丈夫なお子に恵まれることこそ女の幸せ、
と私は申し上げておりますのに・・・」
乳母が嘆くのは毎度のことらしく、
娘は肩をすくめて小さく笑い、私を見る。
この娘は自分の意志をはっきり持った利かぬ気の性格らしい。
そういう女なら宮仕えに向いているかもしれない。
おとなしい一方ではやってゆけない。
陰気でくよくよする性格もダメ。
後をふり返らず前だけを見て、
鼻っ柱の強いところがなくてはかなうまい。
私は娘に好意を持った。
(25 了)