・それよりも彼女をおどろかせたのは、
勤めはじめると時間がないことのようだ。
一日はあげて仕事に吸い取られる。
自分の時間、というものがほとんどない。
日曜しか自由にならない。
社会人とはなんて忙しいものだろう、
と今さらのごとく驚く。
これから思えば、
あんなにバタバタしていると思った大学生活は、
なんと優雅な日々だったのだろうと、
やっと気づく。
残業でもあると、
夜おそく一人のアパートへたどりついて、
何をする気力もなくなくしてしまう。
辛うじてラーメンを食べて寝床へもぐりこむ。
こんな調子だと、
もし結婚して共稼ぎをするとなると、
どんなに大変だろうか。
まして子供を産んでその子を育てつつ働く、
なんてこと、「とてもアタシにはできないわ」
彼女はそれをいうのに張りも気負いもない。
それが平均的な女の子の考え方かもしれないが、
私は、あまりの気の張りのなさに、がっかりしてしまう。
「だってね、アタシの仕事なんか、
誰にでもやれる事務だし、
無理して勤めを続けるのも無意味な気もする。
もし結婚したら会社やめることになるだろうなあ。
アタシは不器用だから、
お勤めも結婚も、なんてとても出来ない。
それに子供は保育所へ入れたりせず自分で育てたいし、
やはり、家庭に入ることになるわね」
私はそれを聞いて、
がっかりするというより、
正直、淋しくなってしまった。
私はその娘に、
自分の仕事を持ち、
それを愛する女になってほしい、
と思っていた。
私の周囲には、
有能なマスコミ関係の女性がいっぱいいる。
私はそれまで、男性編集者で、
(これはちょっと問題じゃないか。
この偏狭、頑固さは編集者として無能といわれても、
仕方あるまい)というような人を見た。
しかし、女性編集者でそういう疑問を持たされる人は、
かってなかった、と断言していい。
彼女らは男たちに伍して、
あまたのハンディキャップを負いつつ、
能力いっぱい、すぐれた仕事をしている。
そういう仕事をしていると、
差別や偏見に鋭敏にならざるを得ないが、
かえってそれをバネとして、
資質に磨きをかけ、闘志をわき立たせて、働く。
そういう好もしい女たちを見なれていたので、
その娘にも、そうなってほしかったのだった。
しかし、人にはそれぞれ背負わされた宿命の状況がある。
まして他の人間があらかじめレールを決めることはできない。
私が彼女をどうこうできるものではない。
また彼女の考えをいけないといえるものではない。
大学教育の成果が家庭に還元されてされて、
社会の文化層が厚くなるのは、
民族の地力を強くすることですばらしいことである。
大学を出て家庭にとじこもる女もあっていい。
ただ私は「家庭に入る」女たちに提唱したい夢がある。
自分の家庭だけを小さく守らないで、
すべての女たちの家庭を守ってやったら、ということ。
もちろん、その報酬はきちんと受け取るのだけど、
子供をあずかってやるとか、
夕食の献立を二、三軒いっしょに作るとか、
お布団干し、洗濯物を引き受けるとか、
メモ通りに買い物をしておく、とか。
市役所へ行く用事、
何かの申し込み、郵便局・銀行、
すべてそういう雑事も、勤める女たちは、
会社を休んで弁じなければいけない。
それを、
代わっていってあげることはできないものだろうか。
私がこういうと、
例の彼女をはじめ、家庭に入ってる主婦たちは、
いうかもしれない。
「じゃあ、私たちは社会で働いている有能な女たちのために、
縁の下の力持ち、女のための、内助の功をつくせ、
というんですか」
いや、そうではなくて、
家庭に入るということは、
家の中でのもろもろの手仕事が好き、
少なくとも「誰でもやれる事務」よりは、
自分でしか出来ぬ家庭内の仕事を愛着をもって選んだ、
ということだろうと思われる。
それならその得手の仕事を増やして、
働く女たちの応援をし、
そのことで社会とつながってほしいと夢見るものだ。
(次回へ)