むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

11、女どうし ②

2022年07月27日 08時38分33秒 | 田辺聖子・エッセー集










・それよりも彼女をおどろかせたのは、
勤めはじめると時間がないことのようだ。

一日はあげて仕事に吸い取られる。

自分の時間、というものがほとんどない。
日曜しか自由にならない。

社会人とはなんて忙しいものだろう、
と今さらのごとく驚く。

これから思えば、
あんなにバタバタしていると思った大学生活は、
なんと優雅な日々だったのだろうと、
やっと気づく。

残業でもあると、
夜おそく一人のアパートへたどりついて、
何をする気力もなくなくしてしまう。

辛うじてラーメンを食べて寝床へもぐりこむ。

こんな調子だと、
もし結婚して共稼ぎをするとなると、
どんなに大変だろうか。

まして子供を産んでその子を育てつつ働く、
なんてこと、「とてもアタシにはできないわ」

彼女はそれをいうのに張りも気負いもない。

それが平均的な女の子の考え方かもしれないが、
私は、あまりの気の張りのなさに、がっかりしてしまう。

「だってね、アタシの仕事なんか、
誰にでもやれる事務だし、
無理して勤めを続けるのも無意味な気もする。
もし結婚したら会社やめることになるだろうなあ。
アタシは不器用だから、
お勤めも結婚も、なんてとても出来ない。
それに子供は保育所へ入れたりせず自分で育てたいし、
やはり、家庭に入ることになるわね」

私はそれを聞いて、
がっかりするというより、
正直、淋しくなってしまった。

私はその娘に、
自分の仕事を持ち、
それを愛する女になってほしい、
と思っていた。

私の周囲には、
有能なマスコミ関係の女性がいっぱいいる。

私はそれまで、男性編集者で、
(これはちょっと問題じゃないか。
この偏狭、頑固さは編集者として無能といわれても、
仕方あるまい)というような人を見た。

しかし、女性編集者でそういう疑問を持たされる人は、
かってなかった、と断言していい。

彼女らは男たちに伍して、
あまたのハンディキャップを負いつつ、
能力いっぱい、すぐれた仕事をしている。

そういう仕事をしていると、
差別や偏見に鋭敏にならざるを得ないが、
かえってそれをバネとして、
資質に磨きをかけ、闘志をわき立たせて、働く。

そういう好もしい女たちを見なれていたので、
その娘にも、そうなってほしかったのだった。

しかし、人にはそれぞれ背負わされた宿命の状況がある。
まして他の人間があらかじめレールを決めることはできない。

私が彼女をどうこうできるものではない。
また彼女の考えをいけないといえるものではない。

大学教育の成果が家庭に還元されてされて、
社会の文化層が厚くなるのは、
民族の地力を強くすることですばらしいことである。

大学を出て家庭にとじこもる女もあっていい。

ただ私は「家庭に入る」女たちに提唱したい夢がある。

自分の家庭だけを小さく守らないで、
すべての女たちの家庭を守ってやったら、ということ。

もちろん、その報酬はきちんと受け取るのだけど、
子供をあずかってやるとか、
夕食の献立を二、三軒いっしょに作るとか、
お布団干し、洗濯物を引き受けるとか、
メモ通りに買い物をしておく、とか。

市役所へ行く用事、
何かの申し込み、郵便局・銀行、
すべてそういう雑事も、勤める女たちは、
会社を休んで弁じなければいけない。

それを、
代わっていってあげることはできないものだろうか。

私がこういうと、
例の彼女をはじめ、家庭に入ってる主婦たちは、
いうかもしれない。

「じゃあ、私たちは社会で働いている有能な女たちのために、
縁の下の力持ち、女のための、内助の功をつくせ、
というんですか」

いや、そうではなくて、
家庭に入るということは、
家の中でのもろもろの手仕事が好き、
少なくとも「誰でもやれる事務」よりは、
自分でしか出来ぬ家庭内の仕事を愛着をもって選んだ、
ということだろうと思われる。

それならその得手の仕事を増やして、
働く女たちの応援をし、
そのことで社会とつながってほしいと夢見るものだ。






          


(次回へ)

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