むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

「残花亭日暦」  6

2021年12月07日 09時00分48秒 | 「残花亭日暦」田辺聖子作










2001年(平成13年)

・8月17日(金)

今朝九時ごろ、パパは口から血を出した。
Y夫人の知らせで私とミドちゃんはびっくりして飛んで行ったが、
しばらくして血は止った。
パパは例によってまじまじとしている。

「気分悪いの?」と言うと、ハッキリ、
「いや、気持ち悪いだけ」と言い、
血はすぐ止ったようだった。

顔色も普通で歯ぐきからの出血かと思われた。
しかし、夜六時になって食事しようという間際、
また口中、血だらけ。

この時間なら、大阪の歯科医院に勤めている姪のマリが、
帰るころだろうと思い、連絡する。

待つほどもなく来てくれた。
パパはイスに坐らされ、マリちゃんの持ってきた機械で、
口の中を照らされ、のぞかれ、さわられ、おとなしくしている。

いつもなら、わがままの限り、
「もうええ!」と振り払うところを、
マリちゃんだからおとなしくしている。
パパは若い女の子が好きになっている。

マリだってそんなに若くなく、
お医者のご主人もいるのだけれど、
子供がいないから、いくつになっても若々しい。

「伯父さんのこれ、
少なくとも内臓疾患じゃないと思うわ、口の中の血やわ。
詳しく診ないとわからないけど、血止めだけしておきますね」

といって処置してくれた。

明日、パパはショートスティなので、
帰ってから歯医者さんに連れていき、診てもらうことにする。
明日から私の休日である。

パパをショートスティにやって、
私とミドちゃんで一宮の別荘で夏の休暇を楽しもう、というのだ。
ここ二、三年、気の休まるヒマがなかったから。


・8月18日(土)

迎えに来た人に、パパの歯の疾患で血が出ます、
ということを伝える。

パパは気の進まぬ風で、しょうことなしにというか、
運命を甘受するというか、痛みに耐えるような顔つきで、
車イスのままバスに乗せられて出かけた。

そのあと、一宮町(兵庫県の奥)からお迎えの車、
これは一宮町の住人で、別荘を管理してくれているNさんが、
愛車を駆って来てくれたのだった。

銀色のカブト虫のような、小回りのききそうな車。

「ワシはもうちいと大きい車(の)がエエんじゃけどの、
ウチのが、大きい車はよう運転しきらん、いうでの」

とのこと。奥さんも別荘の清掃を引き受けて下さって、
共々お世話になっている。

宝塚から高速へ入り、山崎で下りるが、
この中国縦貫自動車道、山間部はいつも曇って時雨れがち、
通過すると雲が切れて陽がさしてくる。
二時間近くで村に近づく。

左へ行くと鳥取、右へ取って揖保川をさかのぼると、
播磨の奥、宍粟郡(今は市)、伊和一族の守り神だった、
伊和神社のうっそうたる森が見える。

この播磨一宮の名から一宮町。
更に支流をさかのぼり、やっと小屋に着く。
小屋のまわり、一面の黄色コスモス・・・
タネをまいてくれたのもNさん。

小屋は黄花の中に浮かんで絵本のよう。
この時ばかりは、「パパに見せてやりたい!」と強く思った。

しかし、しばらくすると、
やっぱりパパを連れて来なくてよかった、と思う。

昔の彼なら、
田舎の風光も、渓流の瀬音も、空気も、土の色も、
山荘のたたずまいも、いかにも気に入った、という風情だったが、
近年は着くなり、「もう帰ろう」と言い出すようになっていた。

どこか精神の根太が抜け落ち、
自分でもそれに慣れず、当惑している、というところがあり、
私は同行者や村人たちに気を遣うこと多かった。

夜はお隣の民宿から食べ物を運んでくれる。

Nさんが大きい火鉢に炭をおこしてくれて、
牛肉(宍粟牛)やヤマメ、野菜などを焼く。

民宿のご主人も加わり、楽しい話。
それにしても、お隣に民宿、というより旅館が出来てよかった。

ベランダに出たら渓流の音が高く、
星々はごく近間に見える。


・8月19日(日)

夕べは夢も見ず、ぐっすり眠った。
朝食はまたお隣から運んでくれる。

Nさんに、もっと奥の御方(みかた)神社へ連れていってもらった。
こんな山深い里に、美麗な彩色の神社である。

昔、ここの秋祭りをパパと見に来たことがあった。
その頃はパパも元気で、ハンドルを握っていた。

午後、私は黄色コスモスの咲き乱れる小屋のまわりを、
写生して彩色した。やっぱりパパに見せたくて。

ミドちゃんは渓流の中の大石に寝転んで読書。
彼女はこの大石を「私の専用」といっている。

そこへ行くには、
飛び石伝いに渓流を渡らなければならないので、
私は行ったことがない。

今夜もNさんが来てくれて三人で夕食。
お酒もほどほど、Nさんはおしゃべりの方が酒より好きらしい。

ともかく、いい夏休みだった。






          


(次回へ)

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