・この頃の親は、男の子はむろん、
女の子も使わないのには驚倒させられる。
知人の娘、高校二年だが、
母親が不在のとき、たまたま私が訪れ、
食事どきになっても母親が帰って来なかった。
下の子供たちがお腹が空いたというので、
「ご飯でも炊きなさいよ」と私は彼女に言った。
おかずがなくても、
ご飯をおにぎりにすれば、
子供たちはいっときの虫おさえになるかと思ったのだ。
ところが彼女は米櫃のありかさえわからない。
その家はガス炊飯器だったが、
その使い方も知らない。
台所でまごまごしていた。
また別の知人の娘、
これはもう勤めているのだが、
帰宅して、ちゃんと食事の用意が出来ていないと、
むくれて怒るのだそうだ。
「お母ちゃん、一日家にいて何してんのん」
といって怒ります、
と知人の夫人は苦笑していた。
こういう女の子も困ったものだ。
そんなでは共働きなど出来はしない。
まして共働きで子供を育てる、
などという大事業は望むべくもない。
生活能力を叩きこんでやるというのは、
親の慈悲と情愛である。
だから女の子にも、簡単な大工仕事、
電気製品の、素人でも手に負える範囲の、
修理のイロハぐらいは教えたい。
私の夫の叔母は、体格も大きかったが、
大工仕事のうまい人だった。
棚とか犬小屋ぐらいは上手に作ってくれた。
ああいうのを見ると、
女の子の中に眠っているたくさんの才能を、
いまの教育は、充分ひきだしていないんじゃないか、
と思った。
学校へ行くようになると、
女の子には、他人との間での協調性を育ててやりたい。
もちろんこれは男の子も同じ。
いいウチの息子で、
いい大学を出て、
いい会社へ入った、
非の打ち所のない青年が、
往々にして会社で溶け込めず、
馴染めず、脱落してゆくことがある。
成績や学業に気を取られすぎて、
他人と協調する、という、
人間の暮らしにいちばん大事な訓練を、
されていなかったからである。
女の子の教育方針として、
かなり多くの男女が、
「誰にもかわいがられるように、素直に明るく、
かわいい性質に育てたいと思います。
女の子は将来、家庭に入って、
舅や姑、夫の兄弟たちとも馴染まないといけないのだから」
というのを何度も聞いた。
協調性はたしかに大事だが、
女の子は「素直で明るければ」いいってもんじゃない。
人にかわいがられる、ということは、
男・女ともに幸福な徳性だが、
かわいがられるだけでは、
人生の幸せは半分しか味わえない。
自分が他の人をかわいがることが出来なければいけない。
女が子供を産み、その子をかわいがるのは、生物的な必然で、
そういうものも幸せの一つであろうが、
社会に生きている以上、
女がかわいがるのは子供だけであってはならない。
なぜ女の子を「誰にもかわいがられるように」
という一点だけに押し込んでしまうのだろう。
人をかわいがることの出来る女の子に、
なぜ育てようとしないのだろう。
異性を愛するのは、
その時期がくれば誰にも訪れる感情だが、
同性のよさを認め、それを愛する心の発達も、
促してもらいたい。
男には友情があるが、
女には同性間の友情は存在しない、
というのは、従来の性差別教育の歪曲による結果である。
女の子を友人や仲間の間に抛り出して、
自我の発達、成熟を促すこと。
女の子は往々両親のペットになりやすいが、
女の子ほど突き放して育てないといけない。
依存的な女の子をつくるのは、
廻り廻って両親の苦悩を増すことである。
一人ぼっちに堪える、困難に堪える、
という女の子をつくるのは、いまや、
男の子のそれをつくるより、
緊急、最重要課題である。
極言すれば、この男性社会では、
むしろ男の子はボンクラでも何とかやっていける、
しかし女の子がボンクラでは、
もうやっていけない社会になってしまった。
しっかりと一人立ちできる女の子に育てようではないか。
(次回へ)