<なげけとて 月やはものを 思はする
かこち顔なる わが涙かな>
(月が私に
物思いさせるというのか
嘆けよと 月が誘うのか
なんの
月は 無心に照るばかり
それなのに 月にかこつけて
恨みがましく あふれる私の涙)
・『千載集』巻十五の恋に、
「月前恋といへる心をよめる 円位法師」
として出ている。
円位というのは、
西行の昔の法名である。
この歌も、
西行の歌としておよそ魅力のない歌で、
古来からいぶかしがられている。
西行には、
ずいぶんたくさんの秀歌があり、
ファンも多い。
西行の歌は字で見ても字面の美しさがあるが、
口誦してもリズムやひびきが快い。
しかも天成の詩人である彼の歌は、
歳月を越えて人々を酔わせる。
自然を愛し、
旅を愛した彼は、
世捨て人といいながら、
生きることの滋味を、
うたわずにいられない人だった。
西行、
俗名は佐藤義清(のりきよ 1118~1190)
代々誇り高き武人の家で、
鳥羽上皇に仕え、北面の武士であった。
(北面というのは、
院の御所の北面に詰めて、
警護にあたる武士のこと)
また徳大寺家の家人でもあった。
崇徳帝の保延六年(1140)二十三歳で出家。
富裕な家のほまれある武門生まれの青年が、
なぜ、青春の真っただ中で世を捨てたのか、
なぞである。
友人の死に無常を感じたとも、
さる高貴な女人に報われぬ愛を捧げた結果とも、
また政争に明けくれる現世に、
厭離の念を起こしたともいわれるが、
おそらく、さまざまな原因が重なって、
この多情多感な青年に世を捨てさせたのである。
その時、青年には妻と二人の子がいた。
そのうちの一人は四つばかりの女の子で、
彼が日頃、心から可愛がっている子であった。
その子が慕い寄ってまつわりつくのを、
心を鬼にして縁から蹴落とし、
家を出ていったと伝えられる。
あちこちに草庵を結び、
旅をすみかとして放浪した。
世は保元・平治の兵乱で騒がしく、
西行が心を寄せた人々も、
次々死んでいった。
西行は徳大寺家と親しかったから、
その一門の待賢門院、
お子の崇徳院の悲運に心を痛めた。
崇徳院が配流先の讃岐で亡くなられたあと、
西行は四国へ渡って院の霊を慰め、
<よしや君 昔の玉の ゆかとても
かからむ後は 何にかはせむ>
という歌を捧げている。
西行は月と花を、
こよなく愛した人だった。
彼の半生はちょうど平氏が勃興し、
栄華をほこり やがて没落していった時代に、
当っている。
また鳥羽・崇徳両帝の宿命的な、
肉親憎悪の地獄をも、
目の当たりに見た人である。
地獄を見た人の目に、
慕わしくも美しいのは、
ただ月と花であった。
<願はくば 花のしたにて 春死なむ
そのきさらぎの 望月のころ>
きさらぎの望月、
二月十五日は釈迦入滅の日である。
仏弟子として、
その日を願うのは尤もといえるが、
花と月に見守られて死にたいという西行の心は、
自然への讃歌もあったろう。
彼はその願い通り、
文治六年(1190)二月十六日に死んだ。
七十三歳。
この「かこち顔」の歌は、
若いときの歌らしいが、
どこがいいのか現代人にはわからない。
老いた定家の心に、
ひびく何かがあったのかもしれないが、
百人一首に折々ある、
「なんでこんな歌が」の一つである。
「月やは」の「やは」は反語の助詞。
「や・・・する」は、
かかりむすびの約束で、
月が物を思わせるのか?
いや、そうではないだろう、という意味。
(次回へ)