イエスが11弟子に、これから起こるイエスの死への備えをさせるために、ご自分と父との関係や弟子たちに助け手である聖霊を与えることなどを語る。
前章最後の部分でイエスは、ペテロが三度否認する、と予告する。
それに続きこの章は、心を騒がせてはならない、という言葉からはじめられる。
2節。「父の家には住むところがたくさんある。・・・あなた方のために場所を準備しに行こうとしている」
教義では、イエスが天に準備されるのは、14万4千人の油そそがれた者たちのための場所。でも「たくさんある」っていうのに、14万4千人分ってなんか違和感あるよね・・・油そそがれた弟子たちは「小さな群れ」ってことなのにね。
5節。トマスの質問。「あなたがどこへ行こうとしているか分からない。どうしてその道が分かるか」
6節。イエスの答え。「わたしは道であり、真理であり、命です。わたしを通してでなければ、だれひとり父のもとに来ることはない」
言い換えれば、イエス以外に神に至る道はないし真理もないし命もない。でもこれって、神の民イスラエル人の忠実な11人の弟子たちだけに語られた言葉なんだよねぇ・・・イエスを知りえなかった(今も知りえない)全世界の人に当てはまる言葉なのかなぁ・・・
8節。フィリポの願い。「父をお示しください。それで十分です」
9節。イエスの答え。「わたしを見た者は、父を[も]見たのです」
この[も]は新世界訳の付け足し。三位一体じゃないことが分かるように付け足してる。他の聖書は「父を見た」になってる。続く聖句(10,11,20節)に「結びついている」という言葉が何回か出てくるけど、これも三位一体じゃないという印象操作の意訳。他の聖書は「いる」「おる」「中におる」「内におる」などになってる。13節の「父が子との関連において栄光をお受けになる」も、他の聖書では「父が子によって栄光を~」となってる。
この章には、他にも三位一体じゃないことを示すための意訳がいくつもある。これじゃあ新世界訳が聖書じゃないって言われても文句言えないよなぁ・・・
自分は三位一体を支持するわけじゃないけど(三位一体もアリかなとは思う)、聖書を書き換えてまで否定するってオカシイと思う。いろんな解釈が出来る余地を神が良しとされてるのなら、違う解釈を受け入れることも必要なんじゃないかなと。信じるかどうかは別にして。
22節。ユダの質問。「わたしたちにはご自分をはっきり示そうとされ、世に対してはそのようにされない、これは何が起きたのか」
23節。イエスの答え。「わたしを愛するならわたしの言葉を守り行ない、父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て住まう」
神とイエスが来て住まうのは、やっぱり組織じゃなくて個人。助け手(法的に味方になってくれる弁護者の意)である聖霊も個人に働く。信者同士で集まり合うのは必要かもしれないけど、組織は必要ないように思う。
最後に一行はゲッセマネの園に向かう。
前章最後の部分でイエスは、ペテロが三度否認する、と予告する。
それに続きこの章は、心を騒がせてはならない、という言葉からはじめられる。
2節。「父の家には住むところがたくさんある。・・・あなた方のために場所を準備しに行こうとしている」
教義では、イエスが天に準備されるのは、14万4千人の油そそがれた者たちのための場所。でも「たくさんある」っていうのに、14万4千人分ってなんか違和感あるよね・・・油そそがれた弟子たちは「小さな群れ」ってことなのにね。
5節。トマスの質問。「あなたがどこへ行こうとしているか分からない。どうしてその道が分かるか」
6節。イエスの答え。「わたしは道であり、真理であり、命です。わたしを通してでなければ、だれひとり父のもとに来ることはない」
言い換えれば、イエス以外に神に至る道はないし真理もないし命もない。でもこれって、神の民イスラエル人の忠実な11人の弟子たちだけに語られた言葉なんだよねぇ・・・イエスを知りえなかった(今も知りえない)全世界の人に当てはまる言葉なのかなぁ・・・
8節。フィリポの願い。「父をお示しください。それで十分です」
9節。イエスの答え。「わたしを見た者は、父を[も]見たのです」
この[も]は新世界訳の付け足し。三位一体じゃないことが分かるように付け足してる。他の聖書は「父を見た」になってる。続く聖句(10,11,20節)に「結びついている」という言葉が何回か出てくるけど、これも三位一体じゃないという印象操作の意訳。他の聖書は「いる」「おる」「中におる」「内におる」などになってる。13節の「父が子との関連において栄光をお受けになる」も、他の聖書では「父が子によって栄光を~」となってる。
この章には、他にも三位一体じゃないことを示すための意訳がいくつもある。これじゃあ新世界訳が聖書じゃないって言われても文句言えないよなぁ・・・
自分は三位一体を支持するわけじゃないけど(三位一体もアリかなとは思う)、聖書を書き換えてまで否定するってオカシイと思う。いろんな解釈が出来る余地を神が良しとされてるのなら、違う解釈を受け入れることも必要なんじゃないかなと。信じるかどうかは別にして。
22節。ユダの質問。「わたしたちにはご自分をはっきり示そうとされ、世に対してはそのようにされない、これは何が起きたのか」
23節。イエスの答え。「わたしを愛するならわたしの言葉を守り行ない、父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て住まう」
神とイエスが来て住まうのは、やっぱり組織じゃなくて個人。助け手(法的に味方になってくれる弁護者の意)である聖霊も個人に働く。信者同士で集まり合うのは必要かもしれないけど、組織は必要ないように思う。
最後に一行はゲッセマネの園に向かう。