聖なる書物を読んで

現役JW29年目

ヨハネ15章

2018-10-23 | 聖書
ゲッセマネの園へ向かう途上でイエスは、これから弟子たちに臨む迫害に備えさせる話をされる。

イエスは真のぶどうの木。父(神)は耕作者。あなた方(弟子たち)はその枝。
これまで、神が植えたぶどうの木はイスラエルだったけど、この言葉で真のぶどうの木がイエスに取って代わられたことが分かる。教義ではペンテコステの時にそうなったとしていて、実を結ぶ枝とは油そそがれた14万4千人だとしているけど・・・なんか納得できないなぁ。イエスがそんな区別(差別)するかなぁ。

ものみの塔は、実(霊の実と唇の実)を結ばなければ切って捨てられるってやんわり脅すけど、イエスがここで強調されてるのは、ご自分と結びついたままでいるなら、実を生み出す者になれる(良い栄養分がとれるから、自然に良い実を結ぶ)ということ。そのために必要なのは、互いへの愛(命をなげうつほどの愛)のうちにとどまるという、イエスの言葉(戒め)を守ること。ただ主人の命令(律法)に従う奴隷ではなく、主人(神)の意思を知る友(イエスの)として。あなた方を選び任命したのはわたし(イエス)なんだから、実を結び続けるためにあなた方がわたしの名によって何を求めても、父は与えて下さるから、実を結び続けられるよ、と。

イエスはここで、弟子たちの喜びが満ちるために話してくださっている。やんわり脅すためじゃない。ものみの塔を読んでても喜びがないのは、イエスの言葉じゃないからなんだろう。

続いてイエスは、弟子たちが世から憎まれ迫害されることを話される。
イエスの言葉を守り行なうものは、いつの世も迫害される。今の日本はそれほどでもないけど、いわゆるキリシタンの迫害とか、戦時中はクリスチャン(エホバの証人じゃない)が解散させられたり、投獄されて亡くなったりもしたと聞いた。

自分がクリスチャンではなかった頃、そんな話を聞くと、命を懸けてまで守りたい信仰ってどんなものなんだろうと、興味が湧いたりもした。互いに対する愛ゆえに戦争に加わらない、神を愛するゆえに偶像を拝まない、というのは世からは憎まれる行為だけれど、それによって引き寄せられる人もいるのだろうと思うと、イエスと結びついているなら実を結ぶことになる、というのが分かる気がする。

宣教によって実を結ぶことばかり強調される(枝として認められてないほかの羊にも!)のが、エホバの証人=ものみの塔。聖書を学んでいるようで、なんかズレてる。エホバの証人は、自分たちだけが真理を持ってるなんて不遜なこと言ってないで、もっともっと深く深く聖書を勉強するべきなんじゃないかと思う今日この頃。自分も中途半端な知識で伝道していたんだなぁと反省してます。