花洛転合咄

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上御霊神社辺り④

2008年11月17日 | 徘徊情報・洛中洛外
 天武天皇から文武、そして聖武天皇へという血統の存続は非常に重要であったようで、間に何人もの女帝を挟みながら受け継がれてきました。本来ならば聖武の皇子にその位が受け継がれていくべきところでしたが、藤原氏所出の皇子は夭折し、安積親王もまた急死してしまいました。となると受け継ぐのは阿部内親王すなわち孝謙天皇ということになりました。
 孝謙天皇が淳仁天皇を廃したときの言葉に、「聖武天皇(父)が私(孝謙天皇)に、これからは王を奴隷とするとも奴隷を王とするともお前の自由だ、仮に天皇になった者がお前に無礼を働いたとしたら、即座にやめさせるとよい。」というものがあり、淳仁天皇は無礼であったために淡路に流され、その後どうも殺されています。明治になってから、これは気の毒だということで崇徳院を祀る白峰神宮に合祀し、「淳仁」なる諡号も与えられましたが、およそ1100年の間「廃帝」と呼ばれてきたのですが、この人がひどく祟ったということは聞かない。
 それは、孝謙上皇か淳仁天皇かの選択になったとき、理の当然として全体が上皇に付き、淳仁の淡路流罪を当然とする空気があったためではないかと思われます。つまり、孝謙上皇の権力の淵源は聖武天皇にあった。孝謙天皇が亡くなれば、当然聖武天皇の血をひく者は井上内親王の子である他戸親王か、不破内親王の子である氷上川継しかいない。けれども、川継の父で不破内親王の夫である塩焼王は、藤原仲麻呂の乱連座して処刑されている。となると光仁天皇は寧ろふ馬であって、他戸親王こそが正しく王位を嗣ぐ者であったのです。
 けれども、これは藤原氏にとっては甚だおもしろくない。権力抗争に勝ち抜くためには、何としても自分たちの息のかかった者を王位に就け、他戸親王の線は修正されなくてはならない。孝謙=重祚して称徳天皇の死後に即位した光仁-桓武のラインは本来の線から外れたものであったのですが、これを本流としなくてはならない。。いわば、新王朝の創設であります。また桓武天皇の皇后は式家の藤原乙牟漏、同じく式家の百川の娘旅子は夫人です。南家の吉子(この人は後に御霊となりますが)も夫人、北家の小屎も夫人ということで、桓武の後宮は藤原氏の花盛りではないか。井上内親王の子である酒人内親王(桓武の異母妹)を妻としているのは、聖武帝の血の継承を意味しているのでしょうか。酒人内親王との間には朝原内親王が生まれています。
 井上内親王と他戸親王が怨霊化したのは、この両人こそ滅ぼされた旧王朝の象徴であったことと桓武天皇の個性も大きく関与していると思われます。かつて大友皇子の首を見た天武天皇は怨霊に怯えたでしょうか。そういうことはなかったように思われます。桓武天皇が本当に剛毅な人物であったなら、平安朝の御霊信仰はその姿を大きく変えていたのではと思われます。この線から生み出される次の御霊が早良親王です。光仁天皇の意思により桓武の後継者と決まっていたものを排除し、自身の皇子を後継者にした。よくあることなのですが、桓武という人はこれを気にしたようです。この井上内親王、他戸親王、早良親王という御霊が出現すると、後はまあ恨みを呑んで死んだ者は怖いぞと言うことで御霊が増えていく。
 梅原某的な無責任な発想をするならば、それならば最大の怨霊にならなければならないのは聖武帝だということになりますが(聖徳太子は子孫が絶滅したために怨霊化したそうな)、それをいいだすと悪のりでしょう。聖武帝は大仏開眼も行って幸せに崩御されていますから。何でも怨霊、かんでも怨霊といえばよいというものではなく、やはり奈良時代末平安初のこの3名こそが最初の怨霊(御霊)と言ってよいのではないかと思われます。などと多くの人が研究しているのに斯様な幼稚な推論で決定して良いのかな?とも思いますし、863年の最初の御霊会では井上内親王と他戸親王は祀られていないのも気になります(時代が古い分だけ当時まんえんした疫病と両名が結びつかなかったためか?)。が、ここは純粋に狭い範囲での怨霊と言うことで、さらに無責任に論を進めますと、井上内親王以前の人物である藤原広嗣と吉備真備が御霊として祀られるようになったのは、これ以後のことでしょう。広嗣は藤原式家の人というのが大きいかも知れません。吉備真備については、少し考えねばなりません。
 井上内親王以後の御霊としては藤原吉子と伊予親王の母子、これはもう十分に資格有りですが、後述します。橘逸勢と文室宮田麻呂についてはやはり後ほど考えましょう。菅家については別に巻を立てるべきかと。

 写真は、遠く出雲路橋を望む。
 


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