京街道の大阪側の終点は高麗橋、京橋の方から高麗橋に向かって歩いてきて、天満を少し越えたところが南行する熊野街道の出発点です。この辺りにあったという窪津王子は跡形もありませんが、「ここからが熊野街道ぢゃ、しっかりと案内をしてやろう。」と言わんばかりに立派な石標が建っています。だれきった午後からの徘徊、何かオモロイものがあるやも知れぬ。行けるところまで行ってみようと地図も持たぬ毎度の徘徊です。出発点から南は少し坂を上がります。
歩き始めてすぐ、街道をちょっと外れたところで今世紀最大の発見であります。じゃーん。
名前、もうちょっと何とかならんのかいな。あまりに簡明直截、病院事務の若い女の子なんかは、「おう、どこで働いてんねん?」と聴かれて、「オーサカコーモンビョーイン」とは言いにくいでっしゃろな。切れ痔、疣痔、出痔、脱肛、痔瘻などとおぞましい名が並んでおりますが、けれども何が専門か本当によく判ります。奈良で高校教諭をしている友人曰く、「そやけど、スチュワーデスやらデパートのエレベーターガールなんかもみんな痔やで」と。となると、結構色っぽい病ですが、この友人は「キ」のあだ名付ですから話半分にしておきましょう。
この調子で大阪脳みそ病院から始めて大阪爪先病院まで設置していったらとも思います。よく見ると入り口には「旧」の文字も。そやろなあ、病院名も変えるやろなあと兼好法師の如くあわれにみるほどに新名は「大阪肛門科診療所」、なんじゃいな、格下げになっただけかいなと申す処。
さあ、今回の徘徊はもはや目的を果たしたというところですが、まだ50メートルも歩いてはいません。今少し徘徊を続けます。この肛門さんからまたまた50メートルほどの所に「釣鐘屋敷跡」、立派な鐘がぶら下がっています。
この辺りはその名も釣鐘町、徳川家光が大坂三郷を地子赦免地としたのに感謝して鐘を鋳造し、この鐘でときを知らせ、鐘が鳴るごとに将軍の大恩を思い出せというしくみ。曾根崎心中の「此の世の名残、夜も名残。死に行く身を譬ふれば。あだしが原の道の霜。一足づゝに消えて行く。夢の夢こそあはれなれ。あれ数ふれば暁の、七つの時が六つなりて残る一つが今生の、鐘の響の聞き納め。太夫寂滅為楽二人と響くなり。 鐘斗かは、…。」のところで鳴っとる鐘がこれだということです。説明板は「銀座跡」にあるやつと同じで、じっくり探さないと見落としてしまいます。この鐘、今も現役で朝と昼と夕方には自動的に鳴る仕掛け、宝塚の田舎の寺で橦木が自動的に動いて鐘をつくのを見たときには、何というずぼらなと思ったことですが、ここもその仕掛けです。
ここからしばらくの間は、何というものもありませんが、「トンボ学生服」とは懐かしや。小生、若かりし折、中学校に入学するときに、親は「この坊ちゃんはさぞかし熱心に勉強することであろう。」と学生服も最高級の「菅公学生服」を着せてくれました。この期待は1学期の通知表で見事に裏切られ、最高級学生服もすぐにボロボロになりました。S拳か何かで両袖をちぎって帰り、山賊が着る熊皮の甚兵衛のようになった服を見て、「お前にはどんないいものを着せても無駄!」ということで、以後はずっと、このペラペラの「トンボ学生服」しか買ってくれませんでした。買ってもらって3日もしたら、もう尻のところがテカテカと光り始めたように思います。今の製品はどんなもんでっしゃろ。等と回想しておりますが、ひょっとしたら「ツバメ学生服」だったような気もします。となると、トンボさんにはえらいえん罪。
トロトロと歩めば、大阪の教会(バテレン)、意外に古いものがあちこちに残っています。
この辺りの地下には豊臣秀吉による大坂都市計画によって作られた石積の下水路が流れているよし、先だっての大阪城内の急な陥没といい、まだまだ地下には数多くのものが眠っています。
南大江公園までやって参りました。東洋洋傘の建物は本当によく残ったなあと申す処。名前もいいですね。
この南大江公園の一角が「坂口王子跡」の「朝日神明社跡」とのこと、あーややこしい。今は公園の隅に「狸坂大明神」が祀られています。
この辺りに出発点と同じような立派な石標、八軒家から1.3㎞とのことですが、まあいわば「熊野街道の案内はこれで終わりやでー」ということです。こら!大阪市(府かな?)、こんなもんでお茶を濁さずルートとして整備せんかい!
此処より先の詳細はまた先達にうかがうことにして、もう少し南進します。やや行ったところに「榎木大明神」、その横に直木三十五の「南国太平記文学碑」、そぐわんなあという感じです。芥川賞の芥川龍之介は未だに読み継がれていますが、直木賞の直木三十五の作品などかなり大きな書店でないと手に入れることもできない。わずかに、南国太平記などは読もうと思えば読めるというところでしょうか。坂口王子はこの辺りにあったという説もあるそうです。
榎木大明神(南から)
長堀通りを越えてしまうと「熊野街道」の「く」の字もありません。はやくも空堀までやって参りました。この辺り、なかなか良い雰囲気が残っています。
空堀商店街
空堀のパブ(今度入ろう)
高津さんまでやってきました。郡戸王子の跡といいますから熊野街道の筋は外していないのでしょうが、やはり何の説明も道標もありません。
江戸時代の狂歌師「鉄格子波丸」歌碑
金甌小学校跡は今の中央小学校、名前がオモロイことも何もありません。金甌の後やから「無欠小学校」でええやんけ。また、大坂の街中で4つもの小学校を1つにせねばならぬほどに人が減ってガスガスなのに、何故に貴重な緑を破壊して彩都や箕面森町を造成せねばならぬのか理解できません。
生国魂神社(生玉さん)の北にわずかに残る道に「京道」とありますから、ここは熊野街道の残滓と申してよいでしょう。
さて、中寺町に入ると車がビッシリと停まっています。常々から線香(センコ)臭いところですが、今日はまた格別に臭う。吸血鬼のニンニク、小生は線香、この得体の知れぬ煙を立てる悪習のためにアンチではないのですが、ノン・ブッディズムの立場を貫いておるのでありんす。谷町筋にでると天王寺に向かって人の大群、「何じゃいな?」と思いましたが、よく考えたら今日はお彼岸であります。墓参りかぁ(詠嘆)、それでこんなに線香臭いのだ。花粉と黄砂の二重苦に線香が加わり三重苦、そういえば頭の毛がネタネタしてきたように思われます。こらいかん!このまま天王寺まで歩いたら死んでしまう。夕陽丘で地下鉄に潜れるど。本日はここまで。速攻、地下鉄に避難して京橋に向かうのであります。「丸一屋ぁ、呑みにいくぞい。そこを動かず待っとれよ-。」。地下鉄の速度が本当にトロク感じられます。交通局の職員みんなでミスった地下鉄鶴見緑地線、トロイぐらいが丁度かも知れません。
「お前は墓参りは行かんのか?」て、滅相もない。小生が墓参りなどしたら先祖さんはびっくりして心臓が止まって死んでしまいます。おばあはん等は、「何やぁ、大阪大空襲かぁ?」と墓から出てくるでしょう。おじいはん、おばあはん、先祖さん、皆さんが元気に墓の下で暮らせるように小生は泣く泣く墓には行かないのであります。アハハ。
源聖寺坂から旧ガタロ横町。今はラブホだらけ。
歩き始めてすぐ、街道をちょっと外れたところで今世紀最大の発見であります。じゃーん。
名前、もうちょっと何とかならんのかいな。あまりに簡明直截、病院事務の若い女の子なんかは、「おう、どこで働いてんねん?」と聴かれて、「オーサカコーモンビョーイン」とは言いにくいでっしゃろな。切れ痔、疣痔、出痔、脱肛、痔瘻などとおぞましい名が並んでおりますが、けれども何が専門か本当によく判ります。奈良で高校教諭をしている友人曰く、「そやけど、スチュワーデスやらデパートのエレベーターガールなんかもみんな痔やで」と。となると、結構色っぽい病ですが、この友人は「キ」のあだ名付ですから話半分にしておきましょう。
この調子で大阪脳みそ病院から始めて大阪爪先病院まで設置していったらとも思います。よく見ると入り口には「旧」の文字も。そやろなあ、病院名も変えるやろなあと兼好法師の如くあわれにみるほどに新名は「大阪肛門科診療所」、なんじゃいな、格下げになっただけかいなと申す処。
さあ、今回の徘徊はもはや目的を果たしたというところですが、まだ50メートルも歩いてはいません。今少し徘徊を続けます。この肛門さんからまたまた50メートルほどの所に「釣鐘屋敷跡」、立派な鐘がぶら下がっています。
この辺りはその名も釣鐘町、徳川家光が大坂三郷を地子赦免地としたのに感謝して鐘を鋳造し、この鐘でときを知らせ、鐘が鳴るごとに将軍の大恩を思い出せというしくみ。曾根崎心中の「此の世の名残、夜も名残。死に行く身を譬ふれば。あだしが原の道の霜。一足づゝに消えて行く。夢の夢こそあはれなれ。あれ数ふれば暁の、七つの時が六つなりて残る一つが今生の、鐘の響の聞き納め。太夫寂滅為楽二人と響くなり。 鐘斗かは、…。」のところで鳴っとる鐘がこれだということです。説明板は「銀座跡」にあるやつと同じで、じっくり探さないと見落としてしまいます。この鐘、今も現役で朝と昼と夕方には自動的に鳴る仕掛け、宝塚の田舎の寺で橦木が自動的に動いて鐘をつくのを見たときには、何というずぼらなと思ったことですが、ここもその仕掛けです。
ここからしばらくの間は、何というものもありませんが、「トンボ学生服」とは懐かしや。小生、若かりし折、中学校に入学するときに、親は「この坊ちゃんはさぞかし熱心に勉強することであろう。」と学生服も最高級の「菅公学生服」を着せてくれました。この期待は1学期の通知表で見事に裏切られ、最高級学生服もすぐにボロボロになりました。S拳か何かで両袖をちぎって帰り、山賊が着る熊皮の甚兵衛のようになった服を見て、「お前にはどんないいものを着せても無駄!」ということで、以後はずっと、このペラペラの「トンボ学生服」しか買ってくれませんでした。買ってもらって3日もしたら、もう尻のところがテカテカと光り始めたように思います。今の製品はどんなもんでっしゃろ。等と回想しておりますが、ひょっとしたら「ツバメ学生服」だったような気もします。となると、トンボさんにはえらいえん罪。
トロトロと歩めば、大阪の教会(バテレン)、意外に古いものがあちこちに残っています。
この辺りの地下には豊臣秀吉による大坂都市計画によって作られた石積の下水路が流れているよし、先だっての大阪城内の急な陥没といい、まだまだ地下には数多くのものが眠っています。
南大江公園までやって参りました。東洋洋傘の建物は本当によく残ったなあと申す処。名前もいいですね。
この南大江公園の一角が「坂口王子跡」の「朝日神明社跡」とのこと、あーややこしい。今は公園の隅に「狸坂大明神」が祀られています。
この辺りに出発点と同じような立派な石標、八軒家から1.3㎞とのことですが、まあいわば「熊野街道の案内はこれで終わりやでー」ということです。こら!大阪市(府かな?)、こんなもんでお茶を濁さずルートとして整備せんかい!
此処より先の詳細はまた先達にうかがうことにして、もう少し南進します。やや行ったところに「榎木大明神」、その横に直木三十五の「南国太平記文学碑」、そぐわんなあという感じです。芥川賞の芥川龍之介は未だに読み継がれていますが、直木賞の直木三十五の作品などかなり大きな書店でないと手に入れることもできない。わずかに、南国太平記などは読もうと思えば読めるというところでしょうか。坂口王子はこの辺りにあったという説もあるそうです。
榎木大明神(南から)
長堀通りを越えてしまうと「熊野街道」の「く」の字もありません。はやくも空堀までやって参りました。この辺り、なかなか良い雰囲気が残っています。
空堀商店街
空堀のパブ(今度入ろう)
高津さんまでやってきました。郡戸王子の跡といいますから熊野街道の筋は外していないのでしょうが、やはり何の説明も道標もありません。
江戸時代の狂歌師「鉄格子波丸」歌碑
金甌小学校跡は今の中央小学校、名前がオモロイことも何もありません。金甌の後やから「無欠小学校」でええやんけ。また、大坂の街中で4つもの小学校を1つにせねばならぬほどに人が減ってガスガスなのに、何故に貴重な緑を破壊して彩都や箕面森町を造成せねばならぬのか理解できません。
生国魂神社(生玉さん)の北にわずかに残る道に「京道」とありますから、ここは熊野街道の残滓と申してよいでしょう。
さて、中寺町に入ると車がビッシリと停まっています。常々から線香(センコ)臭いところですが、今日はまた格別に臭う。吸血鬼のニンニク、小生は線香、この得体の知れぬ煙を立てる悪習のためにアンチではないのですが、ノン・ブッディズムの立場を貫いておるのでありんす。谷町筋にでると天王寺に向かって人の大群、「何じゃいな?」と思いましたが、よく考えたら今日はお彼岸であります。墓参りかぁ(詠嘆)、それでこんなに線香臭いのだ。花粉と黄砂の二重苦に線香が加わり三重苦、そういえば頭の毛がネタネタしてきたように思われます。こらいかん!このまま天王寺まで歩いたら死んでしまう。夕陽丘で地下鉄に潜れるど。本日はここまで。速攻、地下鉄に避難して京橋に向かうのであります。「丸一屋ぁ、呑みにいくぞい。そこを動かず待っとれよ-。」。地下鉄の速度が本当にトロク感じられます。交通局の職員みんなでミスった地下鉄鶴見緑地線、トロイぐらいが丁度かも知れません。
「お前は墓参りは行かんのか?」て、滅相もない。小生が墓参りなどしたら先祖さんはびっくりして心臓が止まって死んでしまいます。おばあはん等は、「何やぁ、大阪大空襲かぁ?」と墓から出てくるでしょう。おじいはん、おばあはん、先祖さん、皆さんが元気に墓の下で暮らせるように小生は泣く泣く墓には行かないのであります。アハハ。
源聖寺坂から旧ガタロ横町。今はラブホだらけ。
熊野川は本当にきれいですね。紀伊山地中の水を集めて水量も豊かです。かつて、熊野川上流の十津川で「わんど」のようなところがあり、底まではっきりと見えているので、調子よく飛び込んだら深さが5~6メートルはあり、慌てたことがあります。その時の湯泉地温泉の入浴料は20円、ムチャクチャ熱い湯でした。
法善寺横丁はいつでも御案内します。盛り場の中にボッとありますが、ついでに坐摩神社などをウロウロするのもいいかも知れませんね。大阪なら交通の便もよいので、mfujino様も9時京都駅発周山行きには間違いなく乗っていただけると思います。ささ舟様は大阪~京都が25分ぐらいで、京都~亀岡が21分ですから、もう楽勝です。また、よろしくお願い申し上げます。
熊野古道を歩くことは若い時からの夢でしたのに、ついに果すことなく夢のまんまに終りました。
西国巡礼で田辺から311を、中辺路から本宮町を経て熊野川を左に見ながら新宮市に入り勝浦から青岸渡寺へ、境内伝いに熊野那智大社に、行きました。バスですよ。
熊野川の清流のキレイなことは、熊本の八代人吉を流れる球磨川と全く同じで、深い山々に抱かれたデンとした大川は怖いほど青く堪らなく偉大に感じました。あちこちに「世界遺産」の看板が目障りの感はありましたけど私の出合った川では最高に素晴らしい川だったような。杉の老木と苔蒸す石畳の大門坂から那智の滝壷までと、那智大社の400段以上の石段はしっかり歩きました。帰りは石段にある店を冷やかしながら、してあの時ごちゃごちゃと何を買ったかさっぱり覚えていないです。
夫婦善哉の法善寺横丁に行ってみたいな^^
熊野三山は車でまわったことがありますが、いにしえの熊野古道は全く関係なく、五条から十津川を経て本宮、そのまま海に出て新宮・那智のコースでした。遥か以前に十津川を抜けていくバスにも乗りましたが、これはなかなかでした。
けれどもやはり、歩けるならば歩かねばならないという感を強くしました。近く、阿倍野・帝塚山付近をウロウロしたいです。
大辺路は周参見の方の道を歩いただけです。あと、滝尻から熊野大社、新宮から大雲取、小雲取というハイライトを残してあります(^_*)
上町台地は散策に良いですね。生魂神社、谷町筋の近代的なビルに入ったお寺、高津神社は仕事が終わった後ちょっと立ち飲みの後谷九まで歩いて夜桜をみたりと楽しい思い出もあります。
今回は夕陽丘まででしたか。次は阿倍野から帝塚山あたりは如何ですか、松虫塚・安倍神社・王子神社、北畠公園や帝塚山の古墳など面白いですよ。帰りは勿論チンチン電車で阿倍野へ戻り明治屋ですね。
墓参りや法事に関しては、いつ頃からでしょうか親戚の間でも「ヤツは特別」という認識が自然に生まれました。法事などは参加していなくて普通、参加しようものならば、まあイロイロと驚嘆の言葉やら嫌みやらを浴びることになります。どこでしくじったのかは、ちゃんと覚えていないのですが、こうなってしまうと非常に楽です。法事のときに仕出し屋からとる飯にイチャモンをつけたのがきっかけのような気もしています。「お好み焼きにしてくれ」と言ったような。
この名称が恥ずかしい女の子は勤めなければいいのであって、これが下野毛(川崎市)・尻手(同)・下井尻(山梨市)・尻毛(岐阜市)・股毛(松坂市)などに住んで居る人は往生しまっせ。簡単に引っ越せればよろしいけど。金甌の名が消えたのは残念でしょうネ(それとも、別にまだあるとか?)。さらに、堺市には毛穴町なる所があります。徘徊堂さんなら既にご存知でしょう。また探索記をお待ちしています。それより、デパートのエレベーターガール(古い呼称ですが)の全員が痔主とは新説です。T百貨店に絶世の美女が居りました(Sさんと同じK市在でした)が、彼女も痔を患っていたとは・・・。
話しが変わってトンボ学生服なるものががあるのですか?トンボ鉛筆なら知ってましたが。まして、最高級品(とか)の菅公学生服など全く知りませんでした。私らは畑で採(盗)ったトマトやナスビを学生ズボンの裾で擦ってそのまま食べましたので、いつもテカテカでした(徘徊堂さんは酒精で光ってたのでしょうか)。服の腕は鼻水を拭くのでいつもコベコベで、肘は破れて楕円形に継ぎが当たっていました。帽子はグリスを塗って、わざと光らせていましし・・・。
いずれにしましても、大阪にはまだまだ古いモノが沢山残っているようで、こうして探訪記を読ませて戴いて楽しいです。
それより、徘徊堂さんが先祖の墓参りをされないのは、もしかして、あいつだけにはさせるなとの先祖の遺言とか。大阪空襲か、と驚かれそうだとのことですが、「謎の飛行物体X」とか「未知との遭遇」などの映画もありましたけど。本当は、菩提寺の近辺に酒屋が存在しないからである、と私は確信しております。