高崎市、群馬の森にある県立歴史博物館で8月30日(日)まで開催中の、開館30周年記念展「国宝 武人ハニワ、群馬へ帰る!」を観てきました。
古代、群馬は東国の中心でした。太田市にある天神山古墳は、全長210m、東国一の大きさを誇る巨大前方後円墳です。さらに、古墳の数は1万基。東国では、段違いの多さです。そこからは数々の素晴らしい埴輪が出土しています。
歴史の教科書に必ず載っている国宝「挂甲をつけた武人」(大魔神のモデルね)も太田市飯塚町から出土したものです。
今回の展示は、この国宝武人埴輪をはじめ、東西の埴輪300点が一堂に集結する大埴輪展。
鎧に身を固めた精悍な武人、神秘的な雰囲気の巫女、つられて笑ってしまいそうなイイ笑顔の農民、巨大な家や船、可愛い動物たち。
当時の人々の様子が伝わってくる数々の埴輪。必見でございますよ。
群馬県立歴史博物館
ところで、古代の群馬「上毛野国(カミツケノクニ)」は、大和朝廷にも劣らない力を持っていました。
また、上毛野国の勢力圏からは鈴鏡という独特の鏡が出土しており、大和朝廷とは異なる独自の政治を行っていたとも推測されています。
日本書紀、安閑天皇の項に、次のような記載があります。
『武蔵国造・笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と同族の小杵(おき)が、国造(くにのみやつこ)の座を争って、年が明けても決着がつかない。
小杵は性格が悪く逆心者で、高慢で従順なところがない。密かに上毛野君小熊(かみつけのきみおくま)に助けを求め、使主を殺そうと謀った。
使主はこれを察知して逃げ、朝廷に訴えた。朝廷は使主を国造に任命し、小杵を殺した。
国造となった使主は大変喜び、朝廷に横渟(よこぬ)・橘花(たちばな)・多氷(おほひ)・倉樔(くらす)の4カ所の屯倉(みやけ)献上した。この年は、甲寅(534年)である。』
6世紀の東国で勃発した大事件、「武蔵国造の乱」です。
逆心者の小杵が、上毛野君の支援を受けて使主を謀殺しようとしたが、失敗。朝廷は使主を国造に任命し、小杵を誅殺した。という話ですが、歴史書というのはそれが書かれた当時の支配者の正当性が強調されていることを忘れてはなりません。
私が思う本当の歴史はこうです。
『当時の東国は上毛野君が治めていた。支配下にある豪族には上毛野君より鈴鏡が“下賜”されていた。(鈴鏡の分布=上毛野氏の勢力圏)
当時、小杵は上毛野君から認められて武蔵国を統治していたが、東国支配の強化を狙っていた大和朝廷は、密かに笠原直使主を支援し、反乱を起こさせた。
こうして勃発した大和朝廷vs上毛野君の戦争は、大和朝廷側の勝利に終わり、上毛野君の力は大きく削がれ、朝廷の東国支配が強化された。』
まぁ、あくまでも素人の想像(妄想)ですけどね。。。
古墳の築造状況からみても、この乱によって、上毛野君の勢力範囲が大分狭められたことが推察されます。(上毛野国の中心は太田市付近から前橋市大室付近に移動)
その反対に、大和朝廷の東国支配強化に貢献した武蔵国には、巨大古墳群が出現します。(さきたま古墳群)
もしも、この乱に上毛野君が勝利していたら・・・?
歴史博物館の隣にある近代美術館では「こども+おとな+夏の美術館 まいにち、アート !!」開催中。
子供も大人も楽しめる展示です。
博物館と美術館の共通観覧券(1,000円)で両方観るのがオススメです(^^)
群馬県立近代美術館
群馬の森の広場ではたくさんのウスバキトンボが飛んでいました。
ウスバキトンボの別名は精霊とんぼ。
もう、お盆ですね。
古代、群馬は東国の中心でした。太田市にある天神山古墳は、全長210m、東国一の大きさを誇る巨大前方後円墳です。さらに、古墳の数は1万基。東国では、段違いの多さです。そこからは数々の素晴らしい埴輪が出土しています。
歴史の教科書に必ず載っている国宝「挂甲をつけた武人」(大魔神のモデルね)も太田市飯塚町から出土したものです。
今回の展示は、この国宝武人埴輪をはじめ、東西の埴輪300点が一堂に集結する大埴輪展。
鎧に身を固めた精悍な武人、神秘的な雰囲気の巫女、つられて笑ってしまいそうなイイ笑顔の農民、巨大な家や船、可愛い動物たち。
当時の人々の様子が伝わってくる数々の埴輪。必見でございますよ。
群馬県立歴史博物館
ところで、古代の群馬「上毛野国(カミツケノクニ)」は、大和朝廷にも劣らない力を持っていました。
また、上毛野国の勢力圏からは鈴鏡という独特の鏡が出土しており、大和朝廷とは異なる独自の政治を行っていたとも推測されています。
日本書紀、安閑天皇の項に、次のような記載があります。
『武蔵国造・笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と同族の小杵(おき)が、国造(くにのみやつこ)の座を争って、年が明けても決着がつかない。
小杵は性格が悪く逆心者で、高慢で従順なところがない。密かに上毛野君小熊(かみつけのきみおくま)に助けを求め、使主を殺そうと謀った。
使主はこれを察知して逃げ、朝廷に訴えた。朝廷は使主を国造に任命し、小杵を殺した。
国造となった使主は大変喜び、朝廷に横渟(よこぬ)・橘花(たちばな)・多氷(おほひ)・倉樔(くらす)の4カ所の屯倉(みやけ)献上した。この年は、甲寅(534年)である。』
6世紀の東国で勃発した大事件、「武蔵国造の乱」です。
逆心者の小杵が、上毛野君の支援を受けて使主を謀殺しようとしたが、失敗。朝廷は使主を国造に任命し、小杵を誅殺した。という話ですが、歴史書というのはそれが書かれた当時の支配者の正当性が強調されていることを忘れてはなりません。
私が思う本当の歴史はこうです。
『当時の東国は上毛野君が治めていた。支配下にある豪族には上毛野君より鈴鏡が“下賜”されていた。(鈴鏡の分布=上毛野氏の勢力圏)
当時、小杵は上毛野君から認められて武蔵国を統治していたが、東国支配の強化を狙っていた大和朝廷は、密かに笠原直使主を支援し、反乱を起こさせた。
こうして勃発した大和朝廷vs上毛野君の戦争は、大和朝廷側の勝利に終わり、上毛野君の力は大きく削がれ、朝廷の東国支配が強化された。』
まぁ、あくまでも素人の想像(妄想)ですけどね。。。
古墳の築造状況からみても、この乱によって、上毛野君の勢力範囲が大分狭められたことが推察されます。(上毛野国の中心は太田市付近から前橋市大室付近に移動)
その反対に、大和朝廷の東国支配強化に貢献した武蔵国には、巨大古墳群が出現します。(さきたま古墳群)
もしも、この乱に上毛野君が勝利していたら・・・?
歴史博物館の隣にある近代美術館では「こども+おとな+夏の美術館 まいにち、アート !!」開催中。
子供も大人も楽しめる展示です。
博物館と美術館の共通観覧券(1,000円)で両方観るのがオススメです(^^)
群馬県立近代美術館
群馬の森の広場ではたくさんのウスバキトンボが飛んでいました。
ウスバキトンボの別名は精霊とんぼ。
もう、お盆ですね。
「次は群馬の歴史博物館行きたいね~!」って
話してたところです。
歴史大好きなのです。上毛野君が勝利していたら、「○○古墳群」が、出来てたでしょうかね~
いいなあ~・・
もし、上毛野君が勝利していたら、群馬が
”京都”になるの?へっ?
埴輪ってかわいい顔してますね。
群馬が国の都だったかもしれないですよね~!
群馬県民とすると嬉しいですが、歴史がかなり変わったでしょうね~(^^)
もしかしたら、自分も今ここに居ないかも…
国宝の武人ハニワは、やはり他のハニワとは違う気品があります(^^)
よほどの名工が作ったんでしょうね。
上毛野君側が勝っていたら・・・
400mくらいの巨大古墳もできていたかも・・・
ムササビ埴輪なんていうのもありました。
可愛かったですよ(^^)
武蔵国造の乱にもし上毛野君側が勝っていたら・・・
そんな他愛もないことを想像するのも楽しいです。
この乱に万が一、上毛野君側が勝っていたら・・・
日本は今と大きく変わっていたかも知れませんね。
それとも、意外にほとんど変化がなかったかも?
神のみぞ知る、ですね(^^;)