北の端での高齢者の生き方

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老人介護

2017-03-16 11:00:19 | 日記
随分長い間投稿していませんでした。
自分の親だから、「出来るだけ身近において面倒を見なければならない」と初めは思っていました。
古い公営住宅に住ませ、母は糖尿病と大腿骨骨折から、動けなくなり、ストーブの前に横になり、食事の時間だけは、伝い歩きで、父の食事を作っていた。
新築された老人用の公営住宅に引っ越し、寒さからは逃れたものの、一緒に居る父がレビー小体型認知症!
父は、母のインスリンを打つ担当でしたが、ある日母を別人扱いとなり、母を「こいつは違う!どこへ行ったか居なくなった」と言いだし、同姓同名の母がもう一人居ると言いだし、毎日妻がインスリンを打ちに通い始めました。
一緒に住めばと思い、中古住宅を購入時に父母に行ったのですが、どうも父と嫁が合わず、それぞれ動ける間は別々に勝手に生活するのが良いとの父の思いでした。
母の状況を見ていて、週に3回くらい嫁がおかずを作り届けていました。
ある日、たまにはコンビニの弁当でもと思い、嫁が届けると「いやー旨かった!」と言ったそうです。
嫁は毎回作った「おがず」には言われたことが無く、そこでひと悶着・・・
父の認知症を確認するため、病院へ向かった時、家にいた母は、トイレで倒れており、たまたま訪問介護の看護師さんに見つけられ、入院となりました。
初めは、脱水症状と言われましたが、脳の検査も救急車で大きな病院へ搬送され検査を受けましたが異状なく、このまま家に帰ってもまともな生活が出来ないと判断し、そのまま入院し、入院後1年と2ヶ月で食事が取れなくなり、天国へ旅立ちました。
母の臨終の時、父は自分の妻とは認識していなかったようです。
聞いていると、父の母(私の祖母)と思っていたようです。
父は、嫁にも訪問看護師にも攻撃的になり、私の言う事しか聞かなくなりました。
レビー小体型は、過去の記憶はしっかり残っています。
ただ、幻覚・幻視が現れ、現実離れの話が出てきます。
特に、寝る前に飲む薬を、飲んでいなかったと気付き、朝とか昼に飲むと、夢の中と現実が混同・混乱します。
隣のおじさんが遊びに来て、酒を飲む人なので、酒を出した。その人が台所の壁に挟まって動けないので、救急車を呼んだことがあります。
夜中に、郷里より孫が遊びに来ていて、もう遅いので送っていってやってくれと電話が来たこともあります。
朝鮮人が3人来ていて帰らないので、警察に電話したとか、家具類が投げてあったので拾いに行かなければならないとか、全て夢の中の話です。
壁が白いので、水蒸気が上がっているとか、冷蔵庫がグレーだったため、そこから煙が出ているとか・・・
ケアマネージャと保健師さんに相談し、グループホームに入ることになりました。
月13万円+病院代とかお菓子代とかで3万円を預け、なくなれば小遣いとして施設に届ける形でした。
施設では、毎日声を掛けられ、掃除を手伝ったり、除雪を手伝ったりしていました。
そして、認知症の幻覚・幻視も現れなくなりました。(施設の職員の方々のお蔭です。)
ある時、従妹が顔を見に施設に立ち寄った時、父は、母が死んだとき「俺の頭がおかしくなっていて、こんな所に入れられた。」と言っていたそうです。
私たちにも、一度ニヤニヤしながら、「俺はもう帰ろうかな!」と言った時もありました。
その時には、「まだ療養中だから、もう少し居なさい」と言いました。
やはり、日常の会話が必要なんだと判りました。
いくら家族でも(親子でも)一日中会話とはなりませんよね!
母も、もっと早くにこのグループホームに入れてやれれば、もう少し長生き出来たのにと思っています。
父は、施設で肺炎になり、ちょうど土日の病院の休診日で、月曜日に入院し、2・3週間の入院と診断され、入院手続きを終えて、昼食時には、自分で食事をしていましたが、その日の夜中に急変し、そのまま逝ってしまいました。
子供孝行と言うか、あっけない逝き方でした。(昨年6月)
老人介護と言っても、自分はそれほど苦労したとは思っていませんが、妻は随分とよくやってくれたと思っています。
世の中には、大勢の老人介護をされている方が居ると思います。
私が思うには、父母の様に、本当はこんな家族の在り方ではなく、じいちゃん・ばあちゃんと言われながら、一緒に食事をし、一緒に旅行し、何かある度にじいちゃん・ばあちゃんと呼ばれていたかったんだろうと思います。
しかし、反面子供に世話に成りたくないとの思いもあったのではないかと思います。
結局、子供である私たちは、出来ることしか出来ない。しかもそれは、自分たちの生活が基本にあると思います。
頭では解っていても、やってやれない事は沢山あります。
私は、満足に親孝行は出来なかったと思っていますが、自治体・隣近所の方々にもお世話に成ったと思っています。
これから、益々高齢者が増える中で、自分はその時どうするか?
私は63歳、少しずつ考えて行きたいと思います。
これで、私の「老人介護」は、終わりにします。



レビー小体型認知症

2015-07-27 13:16:03 | 日記
平成27年5月18日に母が亡くなった。
母の危篤時、母の枕元で父は、自分の名前を言って、母に判るか?と呼びかけていた。
父が母に自分の名前を言うのは今まで聞いたことがなかった。
様子を見ていると、どうも危篤状態の母を、自分の母親と思っているらしいと判った。
母は、15ヶ月入院し亡くなった。
入院前は、糖尿病で毎日インスリンを注射する。
注射の担当は父だったが、時折母を母とは思わなく、傍にいる母を別人と思い、どこへ行ったのかと探すこともあった。
昭和初期生まれの父にはプライドがある。
そのプライドに家族を含め周りは非常に困惑する。
認知症は、家族以外の人が、たまに会って話をしても認知症とは思われない場合がある。
家族も認知症と判っていても、腹が立つときもある。
保健師さん・訪問看護師さんには、大変お世話になった。
話し方、接し方は本当に敬服しました。
仕事とは言え大変な事だと思います。
その父を、保健センター・ケアマネージャーのご支援があり、グループホームに入所させました。
母が亡くなって、3日後の事です。
母が亡くなる前から、父には食事の事、夜中の幻覚による行動などを話をし、一人で居るには限界であることを理解させました。
その時私は、「姥捨て山の様で申し訳ない」と言うと、父は「姥捨て山だ!」と答えました。
やはり、核家族の中での老後の生活を理想としていたのかもしれないと思います。
私の家族と初めから一緒ならその方法もあったと思いますが、一度父母に一緒に住まないか?と言ったとき、それぞれ気ままに生活できる方が良いと言われた経過があり、私もそう思っていました。
ホームに入り、まだ2ヶ月しか経ってませんが、夜中のトイレに間に合わず、おむつを着用・・・昼間も間にわななくなってきています。
先日、一緒に外で昼食を食べましたが、歩く姿が急に衰えたような気がします。
精神科の医者に言われた、「レビー小体型は、パーキンソン病と同じような症状で、いずれ運動機能がマヒし、寝たきり老人になります。」との言葉が頭を過ぎります。
認知症の家族の対応が本当に大変だと思います。
父は、母の四十九日法要日で88歳になりました。

捨て猫家に来る

2014-12-31 17:06:52 | 日記
3月に17歳で死んだ猫を骨壺に入れて、部屋にあります。
もう飼わないぞと思っていても、もし飼うのなら死んだ猫に似たのをと思っていました。
9月の末に、近くの神社あたりで猫の鳴き声がすると嫁が思っていたようです。
隣のおじさんが、嫁に「捨て猫2匹いるわ」と教えられ、見に行ってしまいました。
嫁は、帰って来て泣いていました。
何で泣いているのか解らず、聞くと捨て猫がいると言うのです。
俺は「どうすればいいのよ?」と言っても返事がありません。
なんとなく嫌な予感がしたのですが、子猫を見てしまったのが最大の敗因だと思います。
「捕まえて来いば良いのか?」と言っても返事はありません。
仕方なく、「じゃ行くぞ!捕まえたら飼うぞ!」と言って、段ボール箱と軍手を履いて、100m位のところに行きました。
道路の両端に1匹づつ居ましたが、丁度車で来てその猫を見ている人がいました。
一瞬この人が猫を捕まえて飼おうとしてるのかと思い、そうであれば良いと頭をよぎりました。
しかし、すぐに遠のいて行きました。
右手に黒い猫がいて、左から追いかけるようにグレーぽい猫が来ましたが、人を見てまた左の草むらに逃げました。右側の黒い猫を追いかけ、笹藪に入って沈み込んでいました。
手を伸ばすと、シャーと言って威嚇してましたが、もう少し奥に逃げれば捕まえられないのにと、また一瞬思いました。
捕まえると怯えていて、噛みつきましたが、すぐに段ボールに入れると静かになり、次に左手に逃げた猫を探しました。
やはり奥まで逃げず、これも簡単に捕まえました。
この場所は、小学生の通学道路で、何日か前から居たようで、女の子と父親と、ソーセージを持ってやってきました。
「あれ、この猫飼うの?」と尋ねると、「お母さんがダメって言ってるから」と言うのです。
「帰ってからもう一回お願いして、OKだったら連れて行っていいよ!・少しの間預かってるからね」
家に連れて帰り、臭いがひどいのでお湯でシャンプーしました。
猫を水で洗うのは良くないと知っていましたが・・
その後、嫁はミルクがいると言いだし、往復2時間の町まで買いに行きました。哺乳瓶も・・そしてミルクをやると、哺乳瓶の先を食ってしまいました。
体重は400gあり、推定1ヶ月以上で、完璧に離乳後だと思います。その懐き方が今までに経験ない程のなつきようで、可愛くてもう手放せません。

退職後はや一年

2014-12-02 23:54:04 | 日記
昨年9月に退職し、再就職の準備つもりで大型・牽引・大特の免許を取りに行って一年が経ちました。
今年一年の大きな柱は4つあります。
1) 再就職して、現職時代の総括の仕事に就けたこと。
2) 両親の認知症で、通院・入院でバタバタしたこと。
3) 4年越しのブルーベリーを12kg収穫したこと。
4) 身近な肉親の肝臓がんで通院と入院に付き添ったこと。
60歳を越えて色んな人生があると思うけど、歳を感じてる暇は無いぞ♪って感じです。
もうひとつ忘れてました。
3月に16歳の猫が死んだことと、もう飼わないつもりでいたのに、9月に2匹の捨て猫を拾って来たこと。(現在4匹飼育中)

さてまた暇みて、これらの一つ一つを書き留めて行くかなあ