今日のさぬき地方は、気圧の谷の影響で雲が広がり、雨が降ったりやんだり降ったりやんだり・・。気温は11度から15度というが、なんだか肌寒い。
だから、今日もデスクワークの一日。雨の日では紅葉もきれいには写らないし、カメラを濡らしてもつまらないし。
ほぼ終日、このような風景。さすがに雨具を持たないお猿さんは出てこない。小鳥の声も、休日になると走り回るバイクの若者も今日はやってこない。静かな山里の晩秋だ。
論文用のデータの整理中。これは二十四輩の石仏がどこにあるか・・というグラフ。ま、半分がお寺の境内にあるという分析になっている。
で、奥方のお買い物のついでに、さぬき市津田の「松原うどん」に寄ってみた。国道十一号線沿いの「道の駅・津田の松原」の敷地内にあるプチセルフのお店。
で、おすすめという「肉うどん小」を注文した。こういう製品になったおうどんが出てくる。ネギとショウガはフリートッピング。天かすもフリーだが油ものはいやなのでパスした。
左のカウンターで注文してどんぶりに入ったおうどんを引きずって、ご飯もの、天ぷら、おでんなどをチョイスして、右端のレジで代金を支払うシステム。食べ終わったら、容器をさらに右にある返却口に戻しておしまい。ここはなぜだか、レジのところで、ヤカンに入ったお茶をサービスしてくれる。お水はセルフサービス。
雨の日では紅葉も冴えないし、気分も乗らない・・・。
けいこばぁに頼まれていた買い物を済ませて山道を走る。今日はお猿にもイノシシにも出遭わない。このあたりでは、そろそろと、自然薯の掘り出しが始まっている。12月の最初の日曜日が「自然薯まつり」で、農家の人たちは自然薯を掘り出している。と、言っても、このあたりでは畑で自然薯を栽培しているのだ。
その様子はまた明日にでも・・・。本当の自然薯は山の中にあるし、このあたりの山にはいくらでもあるが、なかなかにそれを掘り出すのは難しい。まっすぐ下に向かって1メートルも掘る・・・なんて芸当はできないのだ。
今日は終日雨だったし、明日もまた、こんな天気になるらしい。せっかくの三連休なのにもったいないね。というて、私たちには何の予定もないのだけれど。
今日の掲示板はこれ。榎本栄一さんの「終幕」という詩である。・これほど簡潔で、力強く自らの「まこと」を見つめた言葉があるだろうか。私たちは日々「死ぬいのち」を生きている。誰もが自分がいつか死ぬことを知っている。
・・しかしながら、そこから目を反らせて知らぬ振りをしているのも私たちだ。なぜなら「死」を考えると、恐怖に押しつぶされそうになるからだ。この私が生きている価値がなくなるからだ。人生の「まこと」は「二度と繰り返せない」「誰にも代わってもらえない」「必ず終わりが来る」「その終わりがいつ来るかわからない」というもの。真宗の教えはこの「死ぬいのち」という真実を見つめるところにある。いのちの「まこと」が見えたとき、やらねばならぬ「生き方」のあり方が見え、そして「有ること難し」の人生を心の底から喜べるようになる。
じゃぁ、また、明日、きっと、会えるといいね。
確かにね。 誰しもそう思うのが一番健康的な昇華の方向なんだと思う。 そう思いたいと思う。
しかし、その恐怖から立ち直れずぐずぐずになって仕舞ったりヤケクソになってしまったり、諦めたりと。
あるいは無視したり、有り得ない事に心を囚われていてはいけないとか感じたりとか。
でもどうあがいても思いを巡らしても死ぬのだけど。
生きて行くのって人間、半端に頭があるから困っちゃうんだよな。
かかりつけのお医者さんを持つように、かかりつけの檀那寺、私らは、「お手つぎ寺院」っていうんだが、後生を託すお寺があるでしょ。そこの住職さんと相談しなはれ・・。
私ら、いくら言われても・・無邪鬼さんの後生までは責任持てないんですわ。専門・専門っていうことがあるからね。それだし、やっぱり、後生は檀那寺に任せないと・・・。ああだ、こうだとチャチャは入れたり、それは違うでぇ・・と文句は言うが、最後は檀那寺やからね。
日蓮宗やったか、禅宗やったかは覚えてないけれど、檀那寺の住職と仲良くするのが一番でっせ。そこで人生相談なんぞしたほうがいい。こんな生臭坊主に相談しても・・・「なすがままじゃ」「きゅうりがぱぱじゃ」としか言わないものだから・・・。