まほろば自然博物館

つれづれに、瀬戸のまほろばから自然の様子や民俗・歴史や見聞きしたおはなしをしたいと思います。

はや桜散り初めている無人駅

2022年03月28日 | 時には日々是日

 28日のさぬき市地方は、気圧の谷や湿った空気の影響で曇っていた。気温は10.5度から14.5度、湿度は66%から36%、風は4mから2mの北北西の風が少しばかり。明日の29日のさぬき市は、気圧の谷や湿った空気の影響で曇るらしいが、昼前からは高気圧に覆われるため晴れる見込み。

 

 収縮期94mmhg、拡張期53mmhg、脈拍80bpm、体温35.9c/酸素濃度95%/体重65.2Kg 室内気温21.8c/室内湿度42%/気圧1026hPa 体調に変化はない。今日の日の出は05:57分、日の入りは18:21分 月齢は25.4の若潮。

 

 そろそろ月末が近いし、入院騒動もあって通帳の残高が気になって仕方がない。そこで、町内のATM機で通帳記載をして残高確認。

 

 同じく町内の郵便局屋さんで二次帳簿から出金をして、メイン口座に振り込んでおいた。これで、来月中旬の年金支給日までは大丈夫な筈。それに、当座のお小遣いも残しておいた。

 

 で、市内のやや大きなスーパーに行って、「イクラ」を探してみても見つからない。案外と、こういうものはあんまり食べないのだろうか、見つからずじまい。で、そこにあった花屋さんで、奥方の誕生日祝いにとバラの花束の見積もりをしてもらった。でも、ここでは詳しいことは分からないという。バラの単価は分かるけれど、5,000円分というと、消費税やら作業代やらラッピング費用やらを差し引いて、バラの単価で割ると・・・5,000円の予算で何本のバラが買えるのか、計算ができないという・・・。

 

 そこで、さらに大きな三木店に行けというので、このお店にやってきた。大きなスーパーは駐車場が広くて遠いし、人混みは苦手なのだが、こういう場合は仕方がない。

 

 確かに、ここには品数も多いし、店員さんもテキパキとして対応も早い。実のところ、先月の小豆島での「金婚式記念旅行」の際に、奥方に感謝状を読み上げたのだが、その感謝状の中に、「あなたの大好きなバラの花束を贈ります」という一文があったけれど、そんな旅先でバラの花束なんぞ準備できないじゃないか。その時に、娘から「バラの花束はどうしたん??」と突っ込まれてしまっていたのだった。

 

 ところが、弟が「4月9日に、けいこバァの誕生会をやろうぜ」と言い出したので、その誕生会の席上で、お約束のバラの花束を贈ることにしたものだった。「50年間、長い間、ありがとう」という意味での花束である。私は真っ赤なバラを贈りたいというたのだけれど、それでは色がきつすぎてきれいじゃない・・とか、いろんな色を混ぜたり、かすみ草を加えて柔らかくしたいとかと、お店の方の助言を頂いて、6,000円の花束で契約をしてきた。

 

 こういう感じになるのじゃろうか。

 

 で、捜し物の「イクラ」も見つかったが、案外とお値段するものらしい。「ジェジェジェ・・・」と思ったが、「生き返って命を取り留めたのだから・・・」と、自分へのごほうびに、このイクラを買って来た。

 

 で、今日はお約束通りに「イクラ」と「もずく」で「海の宝石・玉子かけご飯」になった。少しばかり卵黄が崩れてしまったけれど、これはこれでいいお味になったものだ。ツマの代わりにと敷いたレタスとタマネギのシャキシャキ感ともずくの酸っぱさが相まって、「これぞ、至福の玉子かけご飯だ」というような「TKG」になった。

 

 うーむ、海の宝石か・・・。ちなみに、ご飯は炊きたての上に、さらにラップを掛けて30秒ほど加熱してある。右上には削り節も置いてみた。味付けには「味の素」と「柚胡椒」は欠かせないし、玉子かけ用の専用のお醤油を使っている。

 

 食後に、ご近所さんにある県営ダム公園に行ってみると、早くもすっかりと満開状態。病院から戻ったのが金曜日。その時にはまだ、チラホラ状態だったのに、土日の間に急速に開花したみたい。まるで浦島太郎状態になった。

 

 これでは、再来週の土曜日の奥方の誕生会には散ってしまうではないか。「遅くなった花見の宴と、奥方の誕生会」が、「散ってしまった花見の宴と・・・」になってしまうではないか。

 

 今日の掲示板はこれ。「さくらだといふ 春だといふ 一寸お待ち どこかで泣いている人もあろうに」という山村暮鳥さんの言葉から。いつもの赤松先生のお寺の掲示板から。山村は極貧の農家に生まれ小学校中退後、10代前半で家出。さまざまな職場を転々としながら放浪し、「肉から皮を剥ぐような暮らし」の中で、物を盗み、一椀の食物を乞うたことさえあったそうだ。その後、キリスト教と出会い洗礼を受けると、すぐさま伝道師となることを志願し、伝道学校へ入学。別科生として東京の築地聖三一神学校への編入を許された。一方、文学への想い断ち難く、大正3年には、萩原朔太郎、室生犀星と、詩、宗教、音楽の研究を目的とする『人魚詩社』を設立。伝道活動を続けながらも、詩壇に大きな波紋を投げかけ、『日本立体詩派の祖』と呼ばれるも、大正13年の師走。41歳の誕生日と詩集『雲』の刊行を目前に、生涯を閉じた。その山村暮鳥に桜をテーマにした詩がこれだ。能天気に花に浮かれる心をたしなめて、「泣いてる人」を思いやった、山村暮鳥の弱者に注ぐ視線が優しい。今年の桜は切な過ぎる。新型ウイルス蔓延を受けて日本中が泣いている。ロシアに侵略されたウクライナほか大勢の人々が泣いている。世界中の人々が泣いている。

 

じゃぁ、また、明日、逢えたら、いいね。


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