nikkurei社長のひとこと**ケアマネは希望の星だ**

ケアマネジャーに笑顔をもたらす会社です
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2007Mt.Fujiエコ・サイクリング

2007-10-21 11:16:33 | 雑感
今週の日曜、もう1週間たちますが、「2007Mt.Fujiエコ・サイクリング」の富士山1周100kmサイクリングに参加。
趣旨はエコの普及と富士山への理解ということですが、イベントは自転車で富士山の周辺を50kmもしくは100kmというサイクリングが中心の催しに100kmに参加です。

「富士ハーネス」を出発して白糸の滝付近、富士山こどもの国、富士サファリパーク、須走から籠坂峠をえて山中湖へ、さらに道の駅富士吉田、道の駅なるさわ、精進湖、本栖湖、道の駅朝霧高原から富士ハーネスまでの100kmです。

途中で転倒という事故にあいましたが、とにかく完走8時間半かかった、予定では6時間。

途中ブランクはあるが自転車歴20年、愛用の自転車はその当時ではトップモデル、そう簡単に乗りこなせるしろものではない、いまでは珍しい前輪が小さく後輪が大きい前傾姿勢をとってスピードがでる設計、ギアも後ろ6段といういまでは生産していないモデル。
これで籠坂峠を越えた、しかも怪我を負いながら。
これだらかやめられないのですね、この達成感、充実感。
しかし健康のために行っていることで怪我とは、本末転倒。ここは反省です。

「富士ハーネス」に関して、ここは日本盲導犬総合センターという施設、盲導犬の育成などを事業にしている。
建物の1部に入ったが内装、設備に金がかかっている、当然犬に対する配慮、視覚障害の人に対する配慮もあるが、こうのような施設があるとは知らなかった。
盲導犬に対する理解、啓蒙もしているようで一見の価値がある。
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経験的バリアフリー考

2007-10-19 19:36:22 | 提言
今、左下腿に大きな打撲を負って歩行に困難をきたす生活を送っています。
原因は今週日曜日ロードサイクリングで転倒したこと。そのことは後日。
下腿部損傷で歩行障害によるADLへの影響、
この仕事に携わっているので、障害に対する知識や体験は承知のことと思っていたが、生活という場面では予想を越える困難にぶつかっている。
例としてキッチン。
通常のキッチンは家族3人から4人の食事を3品から4品調理することを前提にしている。当家のキッチンも同様のサイズのビルトイン・システムキッチン。
今回の経験から流し・調理台・レンジの間が長い。移動がつらいことを実感した。
とこらが高齢者が1人もしくは2人で調理もそれほど手を掛けないといたら、流し・調理台・レンジは通常の家族のサイズがいるだろうか。
高さ、シンクや調理台したの空間で車椅子対応を考えるが、移動空間も考慮に入れたい。

今回の経験で痛感したことは人間の空間は2足歩行で移動することが前提、バリアフリーといってもやはり2足歩行のための設計になっている。
我が家も築6年目という建物ですからバリアフリーにはなっている。しかし、しかしゆとりのない建築物ですからいたるところに無理があり、また、そこにバリアフリーにするので、都合がいいのやら悪いのやら。
例、階段、2足歩行では問題ない、手すりもあり、上り下りで不便は感じないが、いざ、歩行機能に問題が生じると階段の高さがつらい、踊り場で方向をかえしかも階段にしていることで体の向きの修正や段差の不均一が上り下りに困難さを生じさせている。
家具では家の書斎のデスクとチェアは快適、しかし今回の症状では膝下に圧迫が生じ腰をかけることに苦痛を感じる。

要は
歩行障害といっても個人差があること
バリアフリーといってもハートフル法やバリアフリー法での建築基準は汎用であること
家具についても考慮が欲しいこと

よって
建造物のバリアフリー化は生活している場面でそこで生活する者にあわせた考えで設計することが望まれることを経験的に勉強した。
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専門性についての3

2007-10-18 14:36:29 | ケアマネジメント
「介護の『質』に挑む人びと」加藤仁氏著から竹内孝仁氏の文章からここ数日書き込みをしているが、今日もその続き。
さらに専門性のこと。
施設のケアマネジャーの位置、業務に関していくつか思いつくことを述べる。
やはりアセツメントをおこなっているでしょう、当社でへチームによるアセツメントをと考えているが、実行するには乗り越えなければならない壁がいくつかある。たとえば、費用負担のあり方、医療関係者を中心としたチームの場合、その費用は医療保険で患者の負担が発生するし、介護保険のサービス提供者を中心としたチームでは直接的費用は発生しないが参加するメンバーはその後のサービス利用に期待をしているという側面があり、今の制度で在宅におけるチームよるアセツメントの実行は工夫が要る。
これに対し施設内では費用の直接的負担は考えなくていい、問題は実行にいたる筋道が引けるかどうかでしょう。
そこで、何事につけ新規的ことを起こそうとするときの手順は
1、提案する
  根拠をしめす
  根拠がなければ張ったりでいく
  あとは根気よく続ける
2、反対があったら
  やらないこととやることのメリット・デメリットを示す
  やるときの負担を軽減する方法を示す
  行なった後の姿を説明しイメージさせる
3、実行となったら 
  成果がでやすい箇所から行なう
  信頼のおける人にお願いする
  必ず評価をする
  失敗してもめげない・原因追求する
  原因除去して再度トライ
  場合によっては他の方法も検討する
  計画したことは方法なのか成果なのか  
施設でのケアマネジャーは実務ではないのですから、介護職を説得、味方にするには自信のある態度で根拠ある説得法でなければ、だれも耳を貸さないでしょう。
施設のケアマネジャーは頭脳で勝負するしかない、ゆわばそこに専門性を発揮しなければ誰も味方にはならない。
施設のケアマネジャーの専門性の必要なことは以上ですが、問題はその専門性をいかに発揮するか、いかに身につけるか。その回答はいまの研究段階では不十分な内容ではないかと思っています。ケアマネジメントの専門性は、その個人に委ねられているパフォーマンス、ケアマネジメントの専門性の研究とその手法、実行する場面のあり方が相互に関係して、なかなか個人だけでは解決の得られない問題だと思う。
いま、ケアマネジャーでこの問題に取り組んでいる人はいる、研究者もいる。ないのがケアマネジメントを実行する場であろう。場をどう作るか、どうやって今の職場で作るのか。
問題を整理して、皆でやるしかないか。
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専門性についての2

2007-10-17 13:04:27 | ケアマネジメント
専門性に関しての私考
今多くの施設のでのケアマネジャーの位置はどのようなものだろうか、施設に関しては外側からかしか見ていないので、あくまでも私の思っていることなのだが、施設長がいてセクションリーダーなりユニットリーダー・主任がいてその指示のもと介護職員がケアを行い、そのケアの計画を立案するのが施設内ケアマネで、計画に基づいてケアをおこなわせるのが施設長以下リーダーであり主任ではないかと。
経営的見地からみると介護職は実際にケアを担っており収益に結びついているこが見える。一方ケアマネジャーの業務は直接的に収益に結びついているとは言えず経営的見地からはその業務の価値が見えにくい。
施設のケアマネジャーにとっては悲しい現実かもしれないが、施設内で自分の立場を確立していく努力が求められるし、その方法の1つが専門性の発揮にあると思う。
介護職はケアという見える業務で評価がやりやすいが、ケアマネジャーは頭脳的作業で他人からその業務と成果が見えにくい。この見えにくい行為を見えるようにする作業が専門性に基づいた介護計画で施設の皆がケアマネジャーの計画を実行して成果がでた、このやり方のほうがやりやすい、負担が少ないなどを実感させることがケアマネジャーの業務を見えることにする。
単にプランを作成したでは介護職からの評価は得られない。介護職とは異なる視点、観点で見る、成果のでる方法を考える、そこにケアマネジャーの立場があるのではないかと思う。
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『介護の「質」に挑む人びと」から専門性

2007-10-13 18:25:46 | ケアマネジメント
『介護の「質」に挑む人びと』加藤仁氏著から引き続き、竹内孝仁氏の言葉の2番目・専門性について

明治から福祉政策は行われ、その本質は困窮者救済・生活に困っている、寡婦で子供を抱え養育に困難をきたしている、病弱や障害を負っている、そのような困窮者を救済するという行為を福祉の世界が扱ってきた。
この困窮者救済というのは、見方をかえると弱者救済であり、力関係は強者対弱者の関係にとどまる。
強者から弱者へ手を差し伸べる行為にアガペーといい愛といい奉仕といいボランタリティといい慈悲というさまざまな装飾を介在させて、なんとか強者は弱者に歩み寄ろうとする。しかし、弱者からはどのような言葉や意識を持ち出しても強者からの手によって救われる弱者の立場には変わりがない。
明治から昭和45年ぐらいまで弱者救済という福祉政策でもその対象者が少数のうちは良かったかもしれないが、その後の高齢社会という現象によって高齢であることは弱者ではなく、障害を負っていることが直ちに弱者ではなく、経済的困窮もそのとこだけで弱者という対象ではなくなり、高齢者の増加は従来の福祉・強者対弱者、強者により救済という行為では収まらない量的拡大が生じ、その量的拡大は質的な変質を余儀なくさせられた。
ここにきて従来の福祉で言われてきた奉仕、愛などであがなわれる行為から専門性によって行われることが期待される。
むしろ従来の自己犠牲の要素でまかなわれる量や質をはるかに超え、それにかわる何かをもってしないと今日の高齢社会における問題解決の方法とはなりえない。しかし、福祉という分野においてはこの量的拡大と質的変質を理解するに至っているとはいえない現状があり、専門性という言葉だけがあって、介護における専門性を確立する意欲、まして専門性をもって介護を行うことにいたることが少ない。

介護保険制度という公的な制度は創設されたが、その実質的運用はこれから確立されるという現状であろう。
介護という世界に身をゆだねているものにとってその実行や意識において専門性を考えておかなければならないことと思う。
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『介護の「質」に挑む人びと』から・1

2007-10-11 19:46:30 | ケアマネジメント
「介護の「質」に挑む人びと」加藤仁氏著を読んでいる。
その中の文章、施設でのオムツはづしを行なった竹内孝仁氏の言葉「福祉という言葉はモラルが高い印象をあたえるが、現実におこなわれている福祉というのは、ものすごくモラルが低い。中略。当時もいまも、介護職が専門性を持っていない。素朴に、おむつをしているより自分でトイレにいくほうがいいと、介護職員は感じていても、それをどう実行に移すか、その方法とか背景の知識だとかが教育されていない。だからわからない。」p23から
氏の指摘は
1、モラルの問題
2、専門性
3、実行・実現の方法
に要約できる。

一般に福祉ということ言葉からはいいことという印象が与えられる。しかし、福祉でおこなわれていることと言葉の印象とはかならづしも同等ではない。
むしろ福祉ということで与えられる意味に近づけるべく日常の活動がなされなければ、言葉だけがあって、実行の伴わないもととなる。
氏がいっているのは施設介護であるが、ケアマネジメントも同様で、ケアマネジメントは福祉という範疇ではなく独立した分野を形成しているように捉えているが、それでも過去の経緯から眺めるときには福祉の範疇とすることもできるのかもしれない。

それで、ケアマネジメントにおけるモラルに関して。
ケアマネジメントを担うケアマネジャーはその職務にかんしてどのようなモラルを抱いているのだろうか
利用者の利益、秘密保持ということもあるだろう。ここではケアマネジャーの職務のモラルについて考える。

ケアマネジメントに当たるケアマネジャーは自分が立案したプランに対してどの程度の自信をもっているか、いや、自信をもって欲しいのだが、いかがだろうか。
自分がたてたプランを給付管理の段階でサービス提供事業者の実績報告に基づいて修正を加えるとか、途中で事業者の事情で修正させられるとか、自分が立てたプランに自信と責任を感じていたら、修正に応じることより修正が生じたことの方が問題と捉えることと思う。

話が少し変わるが最近前歯に亀裂が生じ、いつ折れるかわからないので歯科で治療をお願いした。
歯科では歯を削るなど人体に手を加える。医科の治療も人体にメスを入れる、薬物を注入する、など、国家から認定されたうえで人体にいろいろな人工的手術を加えるが、少しでも問題があれば人体に損傷を生じ、最悪の結果は死に至ることも想定しうる。
ケアも程度の差こそあれ人体に手を加えることに代わりがなく、ケアの方法をプランするケアマネジャーの責任は医師、歯科医と同様、思い業務だと思う。

さて、医師が処方した内容と異なる服薬をおこなっった場合、医師はどうするか。
医師の見立てと異なる処方を看護師がおこなった場合、どうなるか。
あとから医師は処方を変更するのか、見立てを変えるのでしょうか。

ケアマネジメントもなんら変わることはない。
ヘルパーが休んだからその日の訪問はなし、ヘルパーの都合でこの週は2回を3回にした、ディの送迎が間に合わないから、翌日に変更した、床ずれの手当てが不十分だったので翌日も看護師が訪問した、だから実績にあわせて給付管理をしていう依頼があった場合、変更するのでしょうか。
よくケアマネジャーの業務に関してモラルを考えて欲しい。

一般におこなわれていることが正しいということはない。
本来の立場から見渡すといままでとは異なったことが見える。
ケアマネジメントはまだまだ確立した職制ではなく、これから皆で作り上げていくもの、いままで普通と思っておこなっていることに、なぜ、という気持ちを持っていたもの。
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歌舞伎と鬼平犯科帳

2007-10-10 12:21:25 | 雑感
先週の3連休、「鬼平犯科帳・歌舞伎版」を有線でやっていた。
ご存知長谷川平蔵を中村吉右衛門、
そのほかの役どころは久栄に福助、船頭友五郎に歌六、そして岸井左馬之助に中村富十郎。
TVや映画といった今風現実味を表現手段とした仕草や言葉遣いとはことなり
その1つ1つが歌舞伎の仕草、言い回しで歌舞伎としての表現に則り、鬼平犯科帳の歌舞伎としての演題は昔の近松物や南北のもととはちがった面白さがあった。

歌舞伎という伝統芸能の持つ力強さは現代の作品を歌舞伎仕立てにすることができるのみならず、歌舞伎の演題として面白みをかもし出すことができるということにあるのかもしれない。
一方、考えるのは歌舞伎が伝統として受け継いできた演目を伝統芸能という枠で取れえることの意味のなさである。この「鬼平犯科帳」の演目を見る限り、伝統の技のうえに今風の演劇としてのあり方もあるように思われ、単に伝統芸能というかしこまったみるものではない、娯楽としての歌舞伎の意義を見出してしいるのだが、その中には伝統がはぐくんできた梨園の流れ、梨園を支える周辺の集団のあり方が大きな力となっていることを感じる。

池波正太郎の作品も歌舞伎になりうる素材であろうし、TVや映画という媒体が観客の下地を作っており歌舞伎「鬼平犯科帳」を身近なものとしていることも見逃せない。
現代における「鬼平犯科帳」の歌舞伎講演はおそらく江戸の昔でも多分同じような下地とか観客との情報の共有とかがあったことであれだけの支持を得、今日はで受け継がれることにあったのであろう。

昔の歌舞伎の演目を見ないわけでないが、この「鬼平犯科帳」をみた感想とは昔の歌舞伎のものとは大きな違いを感じる。一言でいうなら「鬼平犯科帳」は面白い、共感できるということで、伝統的歌舞伎では知的な興味を満足させるという楽しさである。

歌舞伎という伝統に甘んじることなく現代の作品も手がけ、しかも面白いものにする歌舞伎の持つ力は貴重なあり方だと思う。
決して看板役者だけでそれはできるものはなく、歌舞伎を取り巻く下書き、下座音楽、端役、衣装、道具さらには松竹という存在もあって、成り立っているものであろう。それらすべてが終結してはじめて歌舞伎が成り立つ、そのあり方に興味を覚える。

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困難な事例の1つから考える

2007-10-09 19:26:55 | ケアマネジメント
最近耳にしたケアマネジャーの事例が示唆に富む内容であったので紹介をする。

介護保険のサービス利用に該当しないのだが、トイレの掃除を依頼する利用者で、かなり以前から行政などへ要望をしていたことで有名な利用者の担当に新しくなったケアマネジャーの事例です。

やはり難しい利用者という気持ちがあり引継ぎで訪問のときは緊張感であったけれど、訪問し一通りの挨拶もどうにか行なえた、その時に新しいケアマネジャーはトイレのことが気になり、トイレを見たらばやはり汚れていて用を足すには困難な状態と判断し、トイレの掃除を行なってくれる事業者を探し、何とかトイレの掃除をしてくれることになった。
次にトイレの形状・和式だとどうしても汚れ易いこともあって住宅改修で腰高便座を検討し、行政に相談をしたところ、行政の担当者はあそこは腰高便座程度の改修では問題解決にならないからと、大規模な改修を逆に提案されたという。
行政の担当者はまたトイレ掃除の要望かと思ったら思いもかけず住宅改修の相談であったので、担当者は驚いたらしい。

しかし、逆に行政の担当者から大規模なトイレ改修を提案されたケアマネジャーも驚き、この話を利用者にしたら信用されなかったらしい。
その後、改修が行なわれ利用者の態度も少し変化し協力的になったという事例。

ここから見えること
1、利用者も行政も事業者も本当は対応を模索していたこと
2、新しい担当のケアマネジャーになるなど変化が加わると事例も変化すること
3、先入観を持ってことにあたると他のことが見えないこと
4、偶然成功した事例にとどまらず、対応法が確立しなければならないこと
5、事例の集積が行なわれ、他の参考となる方法を確立すべきこと
ということを思う。

そのためには
現場に埋もれた状態のケアマネジメントから検証するという視点ももてるよう意識付けできる体制をもつこと
事例を集積して成功事例を導入し失敗事例からは学ぶという体制をつくること
そしてそうした事例を広く公開する制度を創ること
が必要。
当社が複数のケアマネジャーの居宅事業所体制を考えているのも、複数の居宅事業所を構想しているもの以上の理由による。
複数の事例は問題解決の手助けになり、失敗することを未然に防ぎ成功に導くことに役立つ。
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建築士とケアマネジャー、その報酬

2007-10-07 22:33:58 | ケアマネジメント
ケアマネジャーの仕事は建築士の仕事と通じるところがあると思う。
建築士は施主からその要望や希望を聞き、建築基準に適合するかを配慮しながらどのような部材を使うかを決め、建築に携わる大工、左官、塗装工、瓦職人などを人選して、建築に取り掛かる。施行、引渡しから3年後には各部材の点検、10年後には構造の点検を行う。
ケアマネジャーはお客様から要望なり課題なりを把握し、その解決のための手段を考慮、実際にケアにあたる事業所もしくは人間を選び、プランニング当時の目標が達成しているかどうかの点検を行い、次のプランに生かすという作業を行っており建築士と同じような仕事といえる。
彼とケアマネジャーの違いはその認知度と評価。まずこれが違う、建築士は世間から一定の評価を得ており、その評価は報酬に結びついているがケアマネジャーは社会からの評価が定まらない状態にある。
建築士の評価はその建築物のできによって行われ、現物をみることができるので容易に判断ができるがケアマネジャーのつくるものは可視化できないプランであり、その成果、達成度にはいくつかの要素が加わることでさらにその評価が難しいものとなっている。
ケアマネジャーの質の議論は継続しているが、はやく評価にいたる手法の解決が待たれる。
その第一歩はケアマネジメントが他の要素によって左右されない内容にする必要がある。
たとえば他のサービスを考慮しすることなく純粋にケアプランを作成すること、たとえば事業所の意向にかかわらずケアマネジメントを実効すること、たとえばゆるぎないアセツメントの実効とその行為から導き出されるケアプランに実効を徹底すること
ここからはじめないとケアマネジャーが行った仕事に対する正当な報酬は難しい。
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介護労働の採用

2007-10-06 17:42:41 | 経営
ケアマネジャーの採用状況はいかがでしょうか、離職する人も少なく転職する人も少ないと聞きていますがどのような状況なのでしょうか。
当社もケアマネジャーの採用を行っていますがやはり難しい状況にあります。
そんななかでも、いくつかのヒントはつかんでいます。このことは当社「nikkourei経営ニュース」2号に掲載しました。詳しくは当社のプレス発表をご覧頂きたいと思います。
その中のヒントをいくつか、人材募集の媒体は雑誌、フリーペーパー、折込そしてネットとありますが、利用されるのはやはり紙の媒体が一番多いのでしょうか。
なぜ紙媒体なのでしょうか、ネット媒体は信頼性に欠けるのでしょうか。
ある人材募集会社の担当者の意見では「いつどんなときに誰がみるかわからないです。ですから常時、情報が目にとまる工夫が必要です」と。
確実な方法はないというわけです。しかし金を出して募集する側としてはいつ募集できるのか不明な状況下で常に金を使うわけにはいかない。いつ採用できるのかわからいでは事業計画が立たない。
採用する側としてはやはり確実に採用ができることを望むわけです。
そこで紙媒体では、反応の測定ができない。紙媒体に比べてネットでは、閲覧数がいつ何件という数字が把握できる。効果の測定ができて始めて対策が立てられます。仮に採用できたらその要因はなにか、次回の採用に生かすことができる。かりに採用に至らなかったら、やはり要因分析で記事の内容なのか、募集時期なのか、ターゲットの存在に問題があるのか、原因が把握できるので次回の対策が可能です。
紙媒体では効果測定ができない、対策が立てられない。
ネット媒体は高いと思いますか、紙媒体は3万前後でしょう、ネット媒体は無料掲載もあれば、3万程度もあり、大手では30万から50万とあります。
かかる費用と効果を総合的に比較して、紙媒体を採用するのが効果あるのでしょうか、ネットの方がいいのでしょうか。

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日本の美術館名品展