無題・休題-ハバネロ風味-

私の視線で捉えた世の中の出来事を、無駄口、辛口、様々な切り口から書いてみました。

飽海地域史研究会 明治30年奥羽人類学会による遺物発見地名表

2025-02-13 17:27:38 | 歴史


昨年に引き続き山形県史だより編集者の石井浩幸氏の講座である。


この日は会場の総合文化センターでは、様々な行事が立て込んでいて、狭い研修室しか借りる事が出来なかった。
参加者はぎゅうぎゅう詰めである。


東京人類学会は明治17年に創設された。



明治23年には羽柴雄輔が奥羽人類学会を作る。
この学会は東北6県+新潟県の遺跡や遺物、風俗を任類学的に研究したものである。
事務所は鶴岡にあり、会員は29名であった。




石井先生は、羽柴の校長として最後に勤務した鼠ヶ関小学校に行ってみたいと仰っていた。



この人類学会がスムーズに進み、山形県内でも庄内の遺跡遺物が多かったのは、松森胤泰の功績に寄るところが大きい。





羽柴による絵図は、松森胤泰の絵とは比ぶべくもないが、当時カラー写真など無かった時代には、重要な資料となる。
(松山でのギャラリートークで、松森の細密画に驚き、カメラに収めてきたが、データとしてPCに入れているだけで、ブログには載せていなかった。)












坪井さんの写真が俳優の大泉洋に似ていることに、眼が釘付けになった。
偉い先生なのに、内容が入ってこなくなる。











石井先生は小学校で子供達に教えていたが、歴史の話になると授業があらぬ方向へずんずん進んだようだ。
卒業生達もそれを覚えていて、「先生、歴史の話面白かったな~!」と言って来るらしい。
先生も少子化で歴史を学ばない子が増えること、文化財が個人の家から興味の無い相続者によって破棄されたり売られたりすることに危機感を抱いていると仰っていた。
また著名な歴史学者が亡くなられることで、研究書が無くなることも心配しておられた。
飽海地域史研究会でも同様のことが言えると思う。




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やっと繋がった。

2025-01-15 15:19:04 | 歴史
自分のブログに繋がらない日々が続いた。
同じGoo blogを使っている方々のブログも同様だった。
私のは、個人の趣味で行っている物だから、金銭的な不具合は発生しない。
今年に入ってから、企業のサーバーやらプログラムで、ハッカー騒ぎが相次いでいるそうだ。
2025年、昭和だと100年だそうで、これもプログラムの不具合に繋がっているのではないかと称する者もいる。
そうか、昭和100年か。私の母が生きていたら100歳になっていたのか。
ちなみに三島由紀夫も生誕100年だそうだ。



さて、飽海地域史研究会の今年の活動予定である。



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飽海地域史研究会 長崎丸

2024-12-10 16:15:19 | 歴史
11月23日、東北学院大学非常任講師で山形県城郭研究会会長でもある山口博之氏を講師に、「幕府軍艦・長崎丸・一件」について講座が開催された。



会長挨拶








山口先生は、以前この研究会で庄内地方の城郭の数々を教えて下さった。
とても面白く、天気が良くなったら山城に行くんだと考えて、そのままになっている。


山口先生は、マスコミの歴史学で良く登場する磯田さんと同じ、国際日本文化研究センターで客員教授もされている。


「長崎丸を知っているか?」
正直言うと、私は知らなかった。


長崎丸と呼ばれる幕府の軍艦は、3艦存在する。
1848年にインドで製造された長崎丸は、木製で60馬力の外車で運行する。
幕府が手に入れたのは、1863年である。

長崎丸一番は、イギリスのシッドテで製造され、鉄製でやはり60馬力の外輪で推進する。幕府が手に入れたのは同じく1863年である。

長崎丸二番(通称第二長崎丸)はスコットランドのグラスゴウで製造、鉄製で120馬力のスクリュー推進、幕府が手に入れたのは1863年だった。


共通するのは長崎にて幕府が1863年に購入した事。
時は世の中が明治維新に向かい、焦臭くなった頃である。


日本の周りには、開国を求める外国船が多数屯し、隙さえ見せれば大砲を撃ってくる始末。対抗するべきと幕府は軍艦を用意した。

1868年5月12日、戊辰戦争で明け暮れする世の中、上野の彰義隊が敗れ、逃げる兵士達は第2長崎丸に乗り込んだ。
目指すは、庄内藩に助太刀する為、千代田形艦(木造船)と共に日本海を北上する。


同10月7日、酒田湊に入港しようとするも悪天候に見舞われ叶わず、風待ち港である飛島の勝浦港に入港しようとした。


しかし、海の荒れはさらに増し、勝浦に入る手前で座礁する。
小型の千代田形艦は遭難を免れ、逃げ切ることが出来た。
第2長崎丸の不幸はこれだけではなかった。
庄内藩は、9月26日に新政府に降参し、戊辰戦争を終えたのであった。


座礁した第2長崎丸は、すぐには沈没しなかった。
乗組員の270人は飛島に上陸し、積荷も飛島の住民と力を合わせ、島と何度も往復してあらかた荷揚げすることが出来た。
飛島ではこの270人の乗組員を各家庭に配分し、宿泊に努めた。


庄内では戊辰戦争は終わっていたが、北海道では五稜郭を中心にまだ戦争は続いていた。
乗組員は北海道に滞在していたロシア船に乗り換え大砲などの武器は積み込み蝦夷地へ目指す。
乗組員は島民と仲が良くなって、武器以外の物品は迷惑料として島に遺した。
乗組員と島民は、後に手紙のやりとりなども行うようになった。


積荷の殆どは飛島の島民の手から、現在は江戸東京博物館に移され所蔵されている。


酒田市にも、まだ島民が所有している文献など残っているかも知れない。


洋書の大半が海に沈んだのは、勿体ない。
乗組員の日記などもあっただろうに。





第2長崎丸での生活用品は、イギリス製が多かった。


逆にコンプラ瓶は、海外向けの日本の輸出品だ。



座礁した第2長崎丸は、後に沈没した。
山口先生曰く、酒田市や国、又は民間人は、海中調査をするべきである。
まだ残留物が残っている可能性がある。
これを宝探しも併せて観光に結びつける方法がある。
156年前の明治のロマンを探す旅が始まるのだ。


さて、第2長崎丸と似た運命を辿った船がある。
北海道で沈没した開陽丸である。





開陽丸は後に海中調査され、船の一部や積荷も見つかり、江差にて道の駅に併用した博物館の「開陽丸記念館」が建設された。


内部には展示施設が設けられ、湊には開陽丸を忠実に再現した船が繋がれ、内部も見学できる。


一般の船員はハンモックで休む。


船内での生活用品。


大砲に武器弾薬の数々。


酒田市は第二長崎丸沈没の地元にも関わらず、せっかくの歴史と観光材料を放棄している。
それともやる気の無さか。





会場からも様々な意見が上がり、面白い講座となった。



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【歴史学】磯田道史「失敗のパターンを知るための歴史の読み方」

2024-11-22 14:49:06 | 歴史
【歴史学】磯田道史「失敗のパターンを知るための歴史の読み方」by LIBERARY (旧名称 リベラルアーツプログラム for Business)


磯田さんの仰る「歴史を知ることは安全靴を履くようなものだ。」
と言う言葉には、目から鱗かと思われた。
先の10月22日に行われた「庄内大地震から130年」でも、歴史は繰り返す。
大地震は、同じ場所で繰り返す。
それにも納得した。

と、ここまで書いて、10月22日の纏めを、このブログに載せていない事に気がついた。
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飽海地域史研究会 日枝神社

2024-09-23 22:21:33 | 歴史
象潟郷土資料館で、日本遺産の「北前船寄港地・船主集落」 がらみの名所が示されている。
山形県では酒田市と鶴岡市、秋田県ではにかほ市に加えて4市が加わっている。
先の北前船の特集記事で秋田県にかほ市象潟郷土資料館鶴岡市致道博物館がある。
何故酒田市が抜けたのかは、オトナの事情だろうと思うが、この2つの資料館に匹敵する物が酒田には残されていないからだと思う。


その北前船がらみで、象潟の日枝神社を探ってみる。
ところが、資料館にも地図はなく、googleでググっても出てこない。
これは困ったなと思った時、「そこ、知ってるよ。」と天の助けで、メンバーの中に過去に行ったことがある人物が現れた。



その神社は金浦港の中にあると言う。
実はこの坂を下って岸壁のそばからが正解だったのだが、以前に来た時にここが工事中で山の上から行ったそうだ。


車を停めるとニャァがいた。


看板から本当に港の真ん中にあると知り、階段を上ることにした。


にゃぁが着いてくる。




第2のニャアがいた。三毛猫だ。先の猫同様に耳に三角の切れ目がある。


地域猫にしては人懐こい。


鳥居を潜って登ったのだが。



山の上は単なる見晴台で、一度降りてまた上るのだと言う。


見晴台と言うより、城跡のような石垣や斜面である。





途中で、これは車で移動したほうが良いだろうと言うことになって、ひとまず元の駐車場に降りた。


岸壁の山側に車を止めて歩く。





岸壁から山の方を見ると、金毘羅の文字の入った石碑もあるが、どうやら日枝神社のようだ。



「ここだ!」実に小さい。


日枝神社特有の鳥居があった。

酒田の日枝神社の鳥居は屋根が着いている。(ちなみに日枝神社の文字は西郷隆盛の書である。)


小さなお社が建っていた。


日枝神社には猿がつきもので、狛犬も猿だった。


狛犬の背中に彫られている文字を読む。
ヤブ蚊に追い回されて長いは無用と、堪らずに戻ることにした。



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飽海地域史研究会 象潟蚶満寺

2024-09-23 21:34:00 | 歴史
象潟と言えば蚶満寺だろう。



国道7号線からちょっと入り踏切を渡ると蚶満寺の境内だった。


石の門柱に「皇宮山蚶満寺」の文字が見える。
寺に皇宮とはどういうことなのとは


大地震で島々が隆起し、本荘藩が年貢を増やそうと島を削って田んぼにしようとしたが、蚶満寺の24世覚林和尚がそれに反対した。
単なる寺領の身分で殿様には逆らえない。そこで閑宮家の力を借り後ろ盾にした。
それを恨んで本荘藩は覚林和尚を捕まえ、牢死させるまでになったが、彼の行いで九十九島の景観は保持された。
そんな歴史を持っている。






寺の境内とは思えないほど、整った庭園が続く。








芭蕉の像



西施の像。


湊にはつきものの方角石。
酒田の日和山公園の方角石とは、まるで違っていた。
単に北の方角が彫ってあるだけだった。



きのこがボコボコ生えていた。
一部ハツタケ風な物も見られたが、どれも食用にはならない。


山門は酒田の大工が造ったと言われているが。


蚶満寺の文字が薄れて読めない。



彫刻は見事である。


山門に鎮座する仁王様




















赤い布を纏ったお地蔵様はよく見るが、ここでは青い布だった。


詰め所に人がいないので、そのまま入る。





本堂は大きくて古い。


禅寺だったのか。




沢山の木仏が飾られている。


本堂の裏手に行く。





タブの巨木があった。





この田圃が海だった名残の舟つなぎ石がある。



石仏の数は数え切れないほどだ。








赤と白の萩が綺麗だった。
奥に見える赤い花はサルスベリ


鐘楼の隣に、バナナの木かと思うほどの芭蕉が咲いていた。


今年は花がついたのだそうだ。


境内を見回る黒い御庭番。
人懐こい。


夜になると泣くと言う椿







拝観料は一人300円。庭の整備具合を見ると十分に安いと思う。
予約をすると、和尚様が案内をしてくれることもあるそうだ。
七不思議ならぬ十六不思議もありそうだ。


帰るよと言うと「にゃぁ」と言った。



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飽海地域史研究会 象潟郷土資料館

2024-09-23 16:47:06 | 歴史


秋田県にかほ市にある象潟郷土資料館に着く。
以前鶴岡市の致道博物館とタイアップした「北前船」の催しで行ったことがあったらから、カーナビを使ってほぼ間違いなしに着いた。
先に着いていたメンバーが、外に飾られていた埋れ木のパネルを見ていた。



その実物も飾られていた。話によると、高速道路の日沿道の象潟ICの工事の際に出土した物らしい。


象潟の町が以前は海だったことが解る埋もれ貝の土塊。


館長さんから象潟の歴史を伺った。


2500年前、鳥海山の噴火に拠って、大きな岩を含む土石流が象潟の海に流れ、砂嘴や島々を造った。
その景観は素晴らしく九十九島と呼ばれ、太平洋側の松島と並び称されるようになる。


埋れ木に着いて説明して頂く。
長い間泥土の中に保存されていた樹木は、家具や内装材などの銘木として、江戸時代から掘り起こされ、たいそう高価な金額で取引された。









九十九島と呼ばれているが、その一つ一つに名前が着いており、その数は3x40の120のようだ。


奥の屏風には九十九島が描かれており、本荘藩の江戸屋敷に飾られていた。



今回は象潟を最終目的とした松尾芭蕉の特設展を観ることになった。





左の掛け軸は、画家の森川許六が描いた芭蕉と曽良で、最も本人たちに似ていると言われている。





館長さんの後ろの掛け軸は、漢詩の「飲湖上初晴後雨」で、中国の春秋時代の美女「西施」が、化粧をしたのを松島。
薄化粧をしたのが象潟とした芭蕉が、この地を最北として奥の細道を歩んだ。


芭蕉が歩いた奥の細道。
この距離を見て、芭蕉は隠密であったのだとか言われているが、奥の細道の文は紀行文として、世界に知られている。
同行の曽良の日記と垂らしあわせても、芭蕉は俳句の友人を頼っての旅だったらしい。


右側の掛け軸が芭蕉の直筆。


芭蕉が訪れて後、大地震により象潟は隆起し、島々は地面の上になった。
日本地図を作成した伊能忠敬は、島の状態と隆起した両方を見ているらしい。




3階に上がり、象潟の民俗資料が展示を観る。
秋田の象潟と庄内では、女性が農作業をする場合に、この覆面(はんこたんな)を着けました。虫除け男よけと噂されている。

 

北前船の展示では、現在貸し出しをしており、展示品は少なかった。



郷土資料館。
カーナビでは、酒田よりの狭い道路を曲がりくねって現地に着くが、道路を挟んで前には、体育館が建っている。
その体育館を目的地にすると、国道から大きな道路を通って、いとも簡単に目的地へ着く。
今度はそちらを通ることにしよう。


お昼はガストで日替わりランチ水曜日編をチョイスした。これにドリンクバー付きだ。
ランチはロボットが運んできたがテーブルの上に載せてくれるわけではない。
これをハミながら午後の予定を予習した。



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飽海地域史研究会 新山神社

2024-09-21 23:46:01 | 歴史

山館から新山神社へ移動した。ここは山谷にある新山神社である。



新山神社の新山修験とは、山岳信仰による山々に宿る神々や霊験あらたかな霊地を高める信仰だ。
この新山神社は江戸時代までは神仏混合の聖地だったが、明治政府により仏教の方が取り払われ、現在は神社として歴史を繋いでいる。
修験者は胎蔵山や経ヶ蔵山を巡る庄内4大修験道場の一つだった。
その歴史は残念ながら閉じられてしまった。





その修験を彷彿とさせる急な石段を登って神社へ向かう。


手水鉢


その後ろには湧き水が出ていたそうだ。
その側に巨木が立っていたが、落雷で倒れ、水も消えてしまったそうだ。





ここには山形県指定無形文化財の「新山延年の舞」が、地元の方々によって受け継がれている。


赤ちゃんを抱いている狛犬。


その向かいにはおとっつぁんの狛犬。


安政2年の文字が。奉納したのは松山の碇屋さんらしい。


新山神社に着いた。


中に入れて頂いた。御神体も見える。


色々と建物は面白い。






石段を降りて、社務所へ入る。
氏子総代の方に「新山延年の舞」の説明を伺う。
ビデオを見せて頂いた。


獅子舞(おかしらまい)
以前、酒田祭で見た亀ヶ崎の獅子舞の踊りとよく似ている。
こちらの方が断然歴史が古く。男舞と女舞があるそうだ。


オッコウ舞。
元々は四人で舞っていた。 


稚児舞を担う子供たちの減少など諸事情により、稚児舞はオトナが舞う。
本来は別の日だったが、新山延年の舞そのものは村人が必ず集まるだろう8月15日の旧盆に、新山神社にて奉納されるようになった。



クシャ舞 


太平楽(たいへいらく、剣舞) 
延年舞は平安末期から鎌倉室町あたりに行われた遊宴歌舞で、ゆったり静かに永延と舞が続く。
日本刀の刃を上に下にと繰り返し向きを変えて踊るが、踊っている本人も「今、何回目だろうか、間違っていないだろうか。」とヒヤヒヤするそうだ。


天狗面舞(てんぐめんまい)
この天狗の面は新しい。


新山延年の舞の日以外は秘物とされた、舞の道具を見せて頂いた。
鬼滅の刃の炭治郎が背負っていたような箱からは・・・。


獅子舞のお頭が出現した。
お頭は見た目よりもずっと重いそうで、長い時間支えて踊るのはきついと言う。
獅子の身体は麻で被っていても見通しが利くと言う。


次に見せて頂いたのは天狗の面。
箱を開けた瞬間、カメラを向けていた私はワァッ!と声を上げた。
箱の中から「気」が猛烈な勢いで吹き出して来た「気」がした。鳥肌が立った。
面の隣に写っている白い気は、一体なんだろうね。
面が怒っている感じがした。
最近の舞に新しいお面ばかり使われているからか、は判らない。


天狗の衣装。



翁の面。これを被っての舞もあったそうだが、面の崩れが激しくて、舞は止めている。
この面には、恐いと言う気は起きなかった。





次々に見せて頂く。



壁にかけられていた写真。
この写真の天狗さんは、笑っているように見えるのだが。


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飽海地域史研究会 山館城跡

2024-09-21 23:24:07 | 歴史

郡鏡コミセンからバス2台に乗って山館城跡に向かった。


山館は戦国時代の山城で、頂上は地元の方々の努力で綺麗に整備されている。
ただ残念なのは、山館城跡と解るのはこの標識だけで、もっと詳しい看板が欲しいと思う。



ここの斜面からは、庄内平野が一望出来る場所だが、木々が大きく生い茂り展望を塞いでいる。本来なら選定したいのだそうだ。


山頂の広場には桜の樹が植えられており、春は見事に変身する。






藪になって地面がよく見えないのだが、斜面には山城の特徴である堀切や土塁空堀などが残っている。
自然の地形を利用したり改良したりして、攻めにくい城に仕上げている。
残念ながら、この城は最上義光に拠って攻め滅ばされてしまった。


第二次世界大戦時には、ここが陸軍の練習地になり宮様の視察の記念碑があったそうだが、その石碑は別の場所へ移動したとか。
聞き耳を立てたが、詳しくは聞けなかった。


本格的に探索するには、藪こぎの装備も必要だ。


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飽海地域史研究会 郡鏡コミセンにて

2024-09-17 12:32:31 | 歴史
飽海地域史研究会と郡鏡コミニティセンターのコラボによる「郡鏡・山谷の歴史文化ルネッサンス」 が開催された。


午前の講座では元山形県埋蔵文化財センター職員の黒坂雅人氏による「縄文高畑遺跡と中世の埋蔵銭」と題して
酒田市田沢の高畑中学校跡地に所在する高畑遺跡(山形県遺跡番号464-007)についてお聞きした。





郡鏡コミニティ振興会会長挨拶


来賓の県議会議員挨拶


来賓市議会議員挨拶



講師の黒坂雅人氏は縄文にかなり詳しい。
高畑遺跡は、酒田市田沢の高畑中学校の地から見つかった。縄文人は海岸段丘の日当たりの良い所に住居を構える。
高畑は地元の人々は「たかはた」と呼ぶが、県の博物学の上では「たかはたけ」と呼ぶそうだ。


初回は、明治12年(考古学が花開いた年)松山町の羽柴雄輔とあの松森胤保が調査に入った。
羽柴雄輔は奥州人類学会や奥州博物学を率いた人物である。

上記の挿絵は羽柴の作品である。
いろはの番号が振られているが、左上の「ろ」だけ土偶の足で、他は石器である。
「ち」は扇型の斧だが、要の黒い部分はアスファルトである。アスファルトは木の棒との接着に使われた。





これは他の遺跡で発掘された有名な遮光土偶。
この遮光技術は現在でもイヌイットの人たちがサングラスとして使用している。
土偶はまともな姿で発掘された物は少ない。
どこかが欠けている物が大半だ。


山谷新田遺跡(山形県遺跡番号464-023)からは土偶が多数発掘されている。
イカ星人かと思うほどの顔が着いている。


これも土偶で、お腹の真ん中が割れている。


破片を集めて復元した。中には子供たちが手伝った物もあると言う。


とことん使われた石皿。食べ物をつぶす為に使われた。


山谷新田遺跡(県指定464-032)の沢筋の集落跡。


土の断面に赤い部分があり、焼け土ではないかと言われている。


縄目の文様があるのが縄文土器である。
時代が古いほど細かい模様で、後期(晩期)になるとコブが着いたり、大雑把で粗い模様になると言う。


午前の講座が終わると、地元の方々がお師匠さんになって、藁細工が始まった。













亀の出来上がり


様々な藁細工が飾られていた。


お昼は地区の食生活改善委員会の皆さんの手作りの芋煮弁当 
(今日は山形でJIAの芋煮会と重なった。)




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鐙谷古文書研究会

2024-08-27 12:40:16 | 歴史

飽海地域史研究会の機関紙、創刊号が発行された。



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鐙谷古文書研究会と図書館から

2024-08-19 11:17:13 | 歴史








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飽海地域史研究会 観音寺城

2024-07-17 14:08:08 | 歴史
7月14日(日)酒田市八幡総合支所ホールで飽海地域史研究会「観音寺城を観光拠点に」の地域講座が開催された。



いつもの文化センター教室とはエライ違いの大きなホールである。
イス・テーブルをガタガタ並べる。講師の須藤さんと息子さんも手伝ってくれた。





来賓の挨拶


会長挨拶


基調講演の「縄張り図からみた観音寺城」は、山形史学研究会の須藤英之(すとうひでゆき)氏からのお話である。
須藤(すとう)さんとお呼びするのは珍しい。


日本の城を連想するに、天守と石垣と堀は三点セットである。
ただ、これは江戸時代以降の城であり、平安・鎌倉・戦国と続く戦いの為の城で、特に山城ではこのような形をしていない。
観音寺城を含む庄内にに於ける山城は、崖のような斜面、頂上近くの平場は曲輪(くるま)と呼び建築された城が建てられていたこと。
水が流れていずともV字に切り込まれた堀切は、敵方が落ちて容易に這い上がれない場所。
堀切の周りに巡らされた土塁で侵入をふせぎ、山そのものを難攻不落の城にした。
そのような山城が個性豊かに残っている。

須藤さんからは、沢山の史料と共に写真や資料を見せて頂いたが、その様子を写真に撮るのは構わないが、SNS等に載せないようにとの指摘された。
残念だが、これまでである。


小野寺会長からは、研究会の紹介に続き、観音寺城や各地の山寺について講義を行った。





観音寺城主は来次氏(きすぎ)である。
後三年の役(1803)の頃、奥州平泉の藤原清原武則の第7子「時衡」が、羽黒山の山伏来次法林を頼り以後20代に渡り羽黒に住む。
1478年、砂越氏が信濃守となり砂越城へ。武藤氏は砂越抑えの為に東善寺城築城。武藤対砂越で、武藤は大山へ(尾浦城)
1560年代、来次氏房が東禅寺村へ、来次時秀(初代)が観音寺城を作る。


左は平安時代の国府跡(他説あり)城輪柵跡
右は古くから八幡には陰陽師の活躍があった。


観音寺城とは。
全国各地に観音寺城と呼ばれる城あり。大きいのは近江


丸印のついている観音寺城。周辺地図は面白い。



ここからは各地の看板を観てみよう。


城を観光に利用するには適切な看板が必要である。





手作りの可愛い看板も良いが、中高生が歴史を知るために見る看板には、きちんとした歴史が必要だ。


砂越城


新庄城の看板は詳しい。









群馬県の金山城は山城も看板も適切だ。





来次氏は米沢藩とも関わりがあった。
初代の来次時秀は観音寺城主で飛澤神社の神職(官人の供奉役)
二代目来次氏秀は上杉景勝の家臣
三代目来次朝秀は1629年上杉定勝の右筆。奥方は小国城主小国因幡守の娘。





子孫は遊佐や藤崎に多い。
観音寺城を観光に活かすにはを語り終わり、本来は観音寺城跡を散策する予定だったが、時間も予定をオーバーした為、一部の有志が城跡近くの神社へ。

留守番と片付け組は、いずれ城跡を目指すことにした。



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縄文の遺跡・小山崎遺跡

2024-05-15 10:28:45 | 歴史


遊佐町の丸池様の西側に、国指定遺跡・小山崎遺跡(縄文)がある。
丸池様や牛渡川同様、鳥海山の湧水が豊富に溢れ出る地域で、その水のお陰で遺物が新鮮に(?)保存されていた。
遺構も見たいが、発掘された遺物も自由に見ることは出来ないのかと思っていたら、遊佐町が2033年までに整備するらしい。
周りの杉を伐採して、縄文時代に擬えて栗やクルミを植えるらしい。
楽しみだな。青森に行かずとも、縄文に触れられる。

しかし、2033年まで、私は生きているのだろうか。それも心配だ。




酒田市ではなく、遊佐町だったから整備が可能だったんだな。
酒田市ときたら・・・以下略

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十三湊安東(とさみなと・あんどう)へ

2024-05-08 12:54:32 | 歴史


花盛りの林檎畑と岩木山


「ご覧あれが龍飛岬、北の外れと~見知らぬ人が指をさす♫」
竜飛岬までは行かないが、方向として同じ津軽半島への道を行く。


能代から一度国道7号線に降りて二ツ井から大館で東北縦貫自動車道路ー津軽自動車道路で弘前を迂回して、十三湖(じゅうさんこ)へ向かう。
十三湖はシジミで有名な淡水と海水が混じった湖である。
そこに栄えたのが、十三湊と書いて「とさみなと」と読む。
音だけ聞くと、四国の湊かと思ってしまうが、本当に古い湊町なのである。

相変わらず、携帯のGoogleとカーナビが示す方向は一致せず、無駄な回り道を進むことを繰り返す。

グネグネ道の村中や、岩木川の土手を走っていると、少し高台になったのか、広く穏やかな十三湖が見えた。広い!!



何処へ行くのが正解なのか、カーナビに示した目的地は、1本の看板のみが建っていた。


これは遺憾。まずは港を探そうと道を走る。
家と家の間から、港らしい場所を見つけ入る。


十三湊漁港である。




十三湖は大きかった。


この橋の下を潜ると日本海に出る。


浅くて底が見える。水も綺麗だ。
しかし、ここにいても湊のことが分からないので先に進むことにした。


2つの駐車場をハシゴして、中之島駐車場に着いた。



露店も出ているし、人も多い。



看板を見ながら中之島へ橋を渡ることにした。


木道を渡る。後ろからオートバイも追いかけてきた。
木板に隙間がある時には注意が必要だと案内には書かれていたが、もしかしてこの橋は人間用歩道ではなく、車も通るのではないかと思う。
島には車が置いてあった。


湖は浅い。遠くに点々と見えるのは、シジミを獲っている人らしい。
小さな点々は子供達のようだ。


料金を払うとシジミ取りに挑戦出来るのだが、時間が決められていて案外早く終るみたいだ。


こちらの橋は、先程渡ってきた物だが、ここは日本海に通じていて、普通に漁港としての役目を持っている。
下を船が通るので、橋を上るにちょっと勾配がきついのである。


中之島には色々施設があって、最も大きいのはキャンプ場のコテージのようだ。


途中での道路にも、八重桜の花が見頃だった。少しだけ桜の時期が遅いのかもしれない。やっぱり青森なんだわ。



資料館に入る。
受付で入場料を払いながら「何処に行ったら遺跡跡が見られるのですか?来る途中で見かけたのは、何もない所に立て札だけでした。」と話すと、
「そこも遺跡なのです。発掘調査が終わって、遺物は資料館に運んで、平らに均しました。そんな所が沢山あるのです。」と教えられ、納得する。


料金を払って展示室へと向かう途中に、五所川原市史が並んでいた。
時間があったら、じっくりと見ることも出来ただろうに。
そうか、ここ十三湊は五所川原市なんだな。


北を向いているのではなく、岩木山を背景に十三湊を紹介している。


十三湊は環日本海交易で重要な位置を占めている。
日本海沿岸の北前船交易に限らず、大陸や樺太も大きく関わっている。



中央には南蛮船(中国船)の模型が飾られていた。


十三湊と三津七湊の所に、酒田湊も載っている。
十三湊は津軽豪族の安藤氏の湊なのだ。


戦いに破れた安倍氏が、安藤氏(安東氏)と名前を変え、東北の3箇所に居城した。










十三湊安東氏は南部氏に負け、秋田土崎と檜山に移る。


この他、古文書(レプリカだけど・照明に曝されているから仕方がない)も沢山並んでいた。


日本海の潮の流れ。これと風を利用して航海した。



台場で発見された古銭の数々。種類もこれの倍の数があった。
それだけ交易が盛んだったろう。

一度受付のホールに戻ると、「是非、そちらのドアの先も見てください。縄文の遺物があります。」と教えられる。
縄文は大好物である。


こんなに無造作に置いてて良いの?と写真を取る。見たことのない縄目である。


こんなに精巧な縄文土器にはどきどき。


沢山の土偶もあったが、一番驚いたのは五月女萢 遺跡から発掘された「人面浅鉢」だった。
何に使ったのだろう。
この他、玉を造る入れ物だったり、漆塗りの土器だったり、美しい石斧にも惚れる。



奥の土器の模様に驚かされる。
まるで、ピカソのゲルニカのようだ。
十二分に堪能し、資料館を出た。

朝6時に出発し、夜の20時に酒田へ到着すると言う、日帰り安東氏巡りは終わった。
帰りの高速道路の混み具合は・・・まぁ60kmで走るのなら、渋滞でも仕方がないか。



コメント
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