唐招提寺金堂の解体修理の模様を、特集を組んで放映していた。
天平文化の名建築として、鑑真和上が建立したと言われているが、実際は違うのではないかとの謎解きが、建築として見るよりも面白かった。金堂は、建立されて以来、数回大きな改修を重ねている。今回の改修は明治の時以来のものだ。阪神淡路の震災で、柱の内側倒れが大きく、各部材のヒビや痛みが進み、倒壊が懸念されるようになったからだ。2000年より文化庁や奈良県が、調査解体に入った。
私は建築を生業としているが、古建築については専門外だ。特に神社仏閣のような建物は、宮大工の棟梁がいなければ、私のような者が何人集まろうと何の足しにもならない。しかも国宝級の建物の保存解体修理ともなれば、我々が使った事もないような贅沢な材料が必要となる。私が日頃本分としている「建築は使う人の物だ」と言う考えなど、木っ端微塵に打ち砕かれる別世界なのだ。過去から未来へ受け継ぐ過程の一つで、昔の人からも未来の人からも、笑われる様な仕事をしていけないと言う、派手なんだか地味なんだか判らない仕事なのである。
なので、古建築に関しては、授業で習った建築史と外から眺めただけと、一般的な知識しか持ち合わせていない。その乏しい知識の中で、唐招提寺金堂の解体を見ていると、面白い事に気が付いた。通常、神社仏閣は建物の面積よりも遙かに大きな屋根を持つ。この屋根に土と共に載せる瓦は大変な重さで、剥ぎ取ると建物自体が30cmは浮き上がるのが普通だ。だから宮大工は屋根が下がる事を、想定して建物を造る。ところがこの金堂は3cm程しか浮き上がらなかった。
建築に限らず材料には、一定の力をかけて変形しても、力を取り除けば元に戻る性質を持っている。クリープと呼ばれるが、それ以上の荷重を掛ければ破壊してしまう前の性質だ。金堂が戻らないのは、木材がこの限界を超えてしまったのかと思ったが、原因は他にあったと思われる。明治の補修の際に中央の小屋組を和小屋から洋風のトラスに変えたのだ。変えたのはその中央だけで、軒先の地垂木や繁根木などの工法はそのままなのだから、力の伝わり方に無理があったのではないかと思う。今回の改修では、トラスはそのままにするのだそうだから、ホンマかいなと???でいっぱいになる。
屋根の話に戻ると、寄せ棟の天辺の両側に、鴟尾(しび)と呼ばれる(一般的には鬼瓦)が付いている。それが天平の物そのままなんだそうだ。下から見上げればバランスのよい大きさに見えるが、実際は大きくて痛みが激しい。今回の調査の結果、致命的なひび割れの為、片方は現役から離れる事になるらしい。代わりを造るのは至難の業だそうだ。過去の職人の技に負けずと何度も試験的に造ってみるそうだが、なかなか難しいようだ。その鴟尾だが、当初は寄せ棟には必要のない形で加工されていたらしい。それから考えると、もっと勾配の緩い入母屋造りだったのではないか。屋根の勾配では、地垂木の使い回しの部材から、現在より遙かに緩やかに造られていたことが発見されていた。
また、木材の年輪から、その木材の育っていた時代を科学的に判定すると言う研究成果を出した方が、日本にいた。年輪の間隔で気候を知り、膨大な資料を集め、基本的な何万年にも渡る年代表を作成した。一本一本、木の年輪を計り続ける地道な調査が効を結んだ。古建築に使われている材料から、生えていた時期や伐採時期を想定し、その建物の実際の建立時期を測定するものだが、木材の皮に近い白身の部分が発見されないと、測定できないのだそうだ。
長くてゴメンね~~!
建築的には、面白い事が沢山あったのだけど、そこは省いて楽しい天平の時代に突入したいと思う。金堂を建立したと言われる鑑真和上だけど、唐の国の人で、何度も渡来する事に失敗し、失明しながらも日本に辿り着き仏教を広めた事になっている。しかし唐招提寺に残されている資料を見てみると、鑑真和上直筆の物があったりで、本人は徐々に視力が落ちた様で、日本に着いた当時はまだ見えていた事になる。また、鑑真は1人で渡来したのではなく、何人かの外国人を連れてやってきた。この金堂は鑑真の存命中には建設されなかったようだ。実際に建築に当たった人間、資料に残っている人こそ、安如宝と呼ばれる人間で、名前の由来からウズベキスタン人ではないかと言われている
天平文化の名建築として、鑑真和上が建立したと言われているが、実際は違うのではないかとの謎解きが、建築として見るよりも面白かった。金堂は、建立されて以来、数回大きな改修を重ねている。今回の改修は明治の時以来のものだ。阪神淡路の震災で、柱の内側倒れが大きく、各部材のヒビや痛みが進み、倒壊が懸念されるようになったからだ。2000年より文化庁や奈良県が、調査解体に入った。
私は建築を生業としているが、古建築については専門外だ。特に神社仏閣のような建物は、宮大工の棟梁がいなければ、私のような者が何人集まろうと何の足しにもならない。しかも国宝級の建物の保存解体修理ともなれば、我々が使った事もないような贅沢な材料が必要となる。私が日頃本分としている「建築は使う人の物だ」と言う考えなど、木っ端微塵に打ち砕かれる別世界なのだ。過去から未来へ受け継ぐ過程の一つで、昔の人からも未来の人からも、笑われる様な仕事をしていけないと言う、派手なんだか地味なんだか判らない仕事なのである。
なので、古建築に関しては、授業で習った建築史と外から眺めただけと、一般的な知識しか持ち合わせていない。その乏しい知識の中で、唐招提寺金堂の解体を見ていると、面白い事に気が付いた。通常、神社仏閣は建物の面積よりも遙かに大きな屋根を持つ。この屋根に土と共に載せる瓦は大変な重さで、剥ぎ取ると建物自体が30cmは浮き上がるのが普通だ。だから宮大工は屋根が下がる事を、想定して建物を造る。ところがこの金堂は3cm程しか浮き上がらなかった。
建築に限らず材料には、一定の力をかけて変形しても、力を取り除けば元に戻る性質を持っている。クリープと呼ばれるが、それ以上の荷重を掛ければ破壊してしまう前の性質だ。金堂が戻らないのは、木材がこの限界を超えてしまったのかと思ったが、原因は他にあったと思われる。明治の補修の際に中央の小屋組を和小屋から洋風のトラスに変えたのだ。変えたのはその中央だけで、軒先の地垂木や繁根木などの工法はそのままなのだから、力の伝わり方に無理があったのではないかと思う。今回の改修では、トラスはそのままにするのだそうだから、ホンマかいなと???でいっぱいになる。
屋根の話に戻ると、寄せ棟の天辺の両側に、鴟尾(しび)と呼ばれる(一般的には鬼瓦)が付いている。それが天平の物そのままなんだそうだ。下から見上げればバランスのよい大きさに見えるが、実際は大きくて痛みが激しい。今回の調査の結果、致命的なひび割れの為、片方は現役から離れる事になるらしい。代わりを造るのは至難の業だそうだ。過去の職人の技に負けずと何度も試験的に造ってみるそうだが、なかなか難しいようだ。その鴟尾だが、当初は寄せ棟には必要のない形で加工されていたらしい。それから考えると、もっと勾配の緩い入母屋造りだったのではないか。屋根の勾配では、地垂木の使い回しの部材から、現在より遙かに緩やかに造られていたことが発見されていた。
また、木材の年輪から、その木材の育っていた時代を科学的に判定すると言う研究成果を出した方が、日本にいた。年輪の間隔で気候を知り、膨大な資料を集め、基本的な何万年にも渡る年代表を作成した。一本一本、木の年輪を計り続ける地道な調査が効を結んだ。古建築に使われている材料から、生えていた時期や伐採時期を想定し、その建物の実際の建立時期を測定するものだが、木材の皮に近い白身の部分が発見されないと、測定できないのだそうだ。
長くてゴメンね~~!
建築的には、面白い事が沢山あったのだけど、そこは省いて楽しい天平の時代に突入したいと思う。金堂を建立したと言われる鑑真和上だけど、唐の国の人で、何度も渡来する事に失敗し、失明しながらも日本に辿り着き仏教を広めた事になっている。しかし唐招提寺に残されている資料を見てみると、鑑真和上直筆の物があったりで、本人は徐々に視力が落ちた様で、日本に着いた当時はまだ見えていた事になる。また、鑑真は1人で渡来したのではなく、何人かの外国人を連れてやってきた。この金堂は鑑真の存命中には建設されなかったようだ。実際に建築に当たった人間、資料に残っている人こそ、安如宝と呼ばれる人間で、名前の由来からウズベキスタン人ではないかと言われている