無題・休題-ハバネロ風味-

私の視線で捉えた世の中の出来事を、無駄口、辛口、様々な切り口から書いてみました。

長崎・島原・雲仙普賢岳

2010-10-26 22:17:55 | 


長崎市を出て、どこまでも広がるジャガイモ畑の中を走っていく。ここは愛野町。



ドライブインでトイレ休憩をとる。化粧室の窓から素敵な海が見えたので、走って建物の裏に行ってみた。海に浮かぶ突き出た半島は、戸崎鼻ではないかと思われる。長崎市での昼食でBEERを飲んで以来、バスの中では宴会が始まり、トイレ休憩が盛んに行われることになる。この休憩したドライブインは、先の長崎市の昼食を取った店と同系列だと言う。あえて言うならば、昼食の中華料理はとても美味しかった。残すのが勿体ないと思うほどだった。(実は、太宰府でのまずい昼食とは雲泥の差だったのだ。)



なおもバスは田園の中を走る。反対側に海が見えた。その海に一直線に伸びるのが、かの悪名高き諫早湾の水門だ。現在はその上を車が行き来できる道路が出来ているという。ニュースの映像で、水門の扉が連続して閉じる所が何度も流された。私は遠く離れた地域に住んでいて、報道だけを頼りに、この水門は閉めるべきではないと、ずっと思っていた。実際にこの地を走っていると、広がる畑、沢と言うか川を挟んだ部分には棚田のような田圃が続く。工業地帯が見える訳でもない。諫早湾の計画の一歩は、農耕地を造る目的だったのだろうと言うのが見て取れた。

そもそも、栽培する作物が我々の地元とは違う。笹の葉畑と見間違うのが生姜畑だったり、普通にミカンが栽培されている。山の畑にざぼんがたわわになっているのには、羨ましいと思った。ざぼんの最大な物は、バレーボール位になると言う。



バスは島原市に入り、ガイドの指さす方向が島原城だと知り、天草四郎の話を聞きながら「雲仙普賢岳災害記念館・がまだすドーム」に到着する。



駐車場を挟んだ向こうには、左奥に雲仙普賢岳、右手前には眉山(まゆやま)がそびえている。眉山は1792年に噴火した事があり、その影響で津波が発生し、「島原大変・肥後迷惑」と言い伝えられているほどの災害が起こったそうだ。



がまだすドームの展望台からは、雲仙普賢岳の全容が見て取れる。
1990-1996年まで続いた雲仙普賢岳の噴火の様子が、この施設で資料として残されている。体験シアターでは、普賢岳を空撮し、記録に合わせてマグマの噴出や移動、火砕流や土石流の凄さを、吹き上げる熱風と共に味わうことが出来た。

 

女子トイレと男子トイレの、岩を使ったサイン。直径は600-750㎜ほど。
実はこの施設の駐車場近くに、坂本龍馬がサッカーの青いユニホームを着た像があった。つまんないので入るときには無視をしたが、帰りにはシャッターを押した。情けない映像が残っている。見たい?



バスは、雲仙港のフェリー乗り場に到着する。



ここから、熊本港までの乗船になる。
一番左に見える女性が、今回の旅のバスガイドさんである。頭も切れるし、弁も立つ。滑舌も良い。脚の長い女性だった。



船は岸を離れた。フェリーに乗るのは初めてだ。自動車の入る階は2層に分かれていた。私たちは3階のデッキに移る。



どこからともなく、カモメが船を追い掛けてきた。目的は「かっぱえびせん」
上手に与えられる人は、手に持ったままの状態で、鳥がくわえていく。下手な人には、そばで船の速さに併せて飛びながら、餌が手から離れるのを待っていた。



我々も盛んにかっぱえびせんを飛ばす。



熊本港が近づくと、鳥達は現金なもので、すれ違う船に向かって飛んでいった。
バスが熊本市を走る頃には、辺りはすっかり暗くなってきた。



全日空ホテルの窓から、夜の町並みを撮す。繁華街は反対側の部屋から見えそうだ。


お幸さんのリクエストにお応えして。



動くバスの中から、身体を捻りながら撮した1枚。
龍馬がサッカーボールを踏んでいる。
ね、ね!情けない1枚でしょう!
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長崎・グラバー園

2010-10-26 22:17:25 | 


港近くの、旧香港上海銀行長崎記念館の脇の駐車場にバスを止めて、通称グラバー通りを上って行く。



長崎は坂の街だ。清里を思い出させるような、可愛い店が並んでいる坂道を歩く。



振り返ると、港が見える。
(尚、この方々は私たちのグループではありません。)



まっすぐ登った先が、大浦天主堂だった。



マリアの像が美しい。内部は撮影禁止だった。ステンドグラスが美しいと教わったが、単純な色合いの組み合わせで、造られた当時なら目を引いただろうと思われる。本場の教会やモスクの物に比べると、比較にもならない。ただ、この建物を設計したのが日本人で、苦労しただろうなと言うのが見て取れた。

他には懺悔室やら、聖ナントカ(名前判らず)の像が無数に飾られていた。写真に撮れないのは、残念でならない。実は私の隣にいた米国人と思われる男性が、そぉっとカメラを使ってるのを目撃する。私も、説明のテープのアナウンスが繰り返し流されていた隙をねらって、施設内は撮影禁止なら、施設内から外部への撮影は良いだろうと、隣にある墓地を撮した。長崎の墓石は、名が金色に塗られている。おいおい、興味本位で墓地を撮すのは、罰当たりだろうと、私も思う。この墓地には見られなかったが、長崎市に入って高台に墓地のあるのを見て、普通の日本の墓の上に十字の飾りの着いている様な墓石が多く見られたのを、まさに長崎らしいと思ったのだ。(この墓地の映像は残っていない。データがフルになって、消したからだ。)

  玄関先の階段に陣を取っていた、人なつこい猫。




天主堂の脇を通り抜けて、グラバー園に向かう。
列柱から見える白い建物は、天主堂の奥の部分だ。



グラバー園の動く歩道(かなりのスロープになって登っていく)で、頂上に出る。
長崎の町並みが美しい。



ここは、スコットランドから渡来したトーマス・ブレーク・グラバーが南山の手の丘に1863年に住宅を建築した場所だ。外国人の居留地と言ったら良いのだろうか。長崎に残る洋館の数々を移築したとも言われている。

遠く、ガスタンクのもっと先に、長崎原爆資料館と爆心地がある。ここに被害が及ばなかったのだろうか。木々で覆われていたのが幸いしたのだろうか。



旧三菱第2ドックハウス。港の中央に造船所があった。船の修理の為、乗組員が宿泊する施設として造られた。



旧オルト邸(国指定重要文化財)のテラス。ここに座って港を眺めながら、紅茶を飲んでみたい。夜になったらもっと綺麗なのだろうと思う。





旧グラバー邸(国指定重要文化財)
内部を撮影しようとしたときに、ちょいとカメラの調子が悪くなる。



少し復活したようなので、グラバー邸の厨房を撮す。
洋館の公開はあっても、キッチンやバスルームを見せてくれる所は少ない。明治の時代を感じさせる厨房だった。

   こんな所にべっぴんさんが!

長崎伝統芸能館で、長崎くんちの傘鉾や白龍と青龍、山車の展示と映像で楽しんだ。



グラバー通りを下って来ると、大きなざぼんを並べている果物屋さんがあった。
生ジュースも販売している。それを買って飲むと・・・100%生ジュースって言ってたのに・・・。以下略
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長崎・歴史資料館

2010-10-26 00:51:18 | 


棟続きの歴史資料館に駆け足で入り込んだ。



せっかく焼き物の故郷の九州に来たのに、1つの窯場も見ていない。そんな気持ちが、器へと引きつけられるのかも知れない。



焼き物産業がこんなにも発展したのは、良い土に恵まれたからだろう。



そして長崎は、鎖国の時代にあっても、唯一世界に開かれた街だったのだ。



こんな所で、懐かしいラムネの壜に出会えた。
見たことのない形もあるぞ。



通りすがりに見た「出島」。運河の右側で、電柱が丁度邪魔をしているのが残念。
中がチラッとだけ見えたが、江戸時代の町並みで、ぜひとも寄って見たかった。
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長崎・原爆資料館

2010-10-26 00:50:09 | 


異国情緒の溢れる長崎。華やかさのある奥に、原爆投下された悲しい歴史を持つ。
九州2日目は、長崎の原爆資料館から始まった。



バスの窓から浦上天主堂を撮す。



原爆爆心地。現在は公園になっている。




長崎原爆資料館



それに続くドーム



ドームの中は螺旋状の階段になっている。



受付で撮影の許可を得る。(腕章を渡された。)
被災前の町並み。普通の人達が普通に生活をしていた。



原爆搭載機「ボックスカー」に積まれた原爆「ファットマン」の実物大模型。
想像していた物よりも大きかった。中心部にプルトニウム、廻りに火薬が詰めてある。
火薬を爆発させ、プルトニウムを内側に爆縮して核分裂を起こさせるのだそうだ。



展示場内。これでファットマンの大きさが判るかと思う。



写真と遺物が展示してある。正視出来ないものもあった。



溶けたガラス瓶



永遠の11時2分
1945年8月9日、長崎が一瞬の内に破壊された。



日中戦争と太平洋戦争、原爆開発の歴史をたどる。



原爆投下への道から、平和へ向けて、世界中の子供達が寄せ書きをしている。
ノーベル平和賞を貰ったオバマ大統領も、一度くらいは広島と長崎の原爆資料館を訪れるべきだと思う。原爆の被害は、現在もなお続いているのだ。
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佐賀・嬉野温泉

2010-10-26 00:49:49 | 
今宵の宿は嬉野温泉だった。
佐賀は焼き物の里、そして美味しいお茶でも有名だ。日本のお茶どころと言うと、静岡や京都をあげる人が多いが、品質のよい美味しいお茶は、やっぱり九州なのだろう。中でも八女茶が飛び切り美味しい。嬉野のお茶の歴史も古く、五百年ほど前に、明の紅令民が南京釜を持参し、不動山に住み着き、釜炒り茶の製法を伝えたのが始まりと言われている。



嬉野温泉の街路樹の下に、白い花を咲かせたお茶が植えられていた。茶畑は見えないかとホテルの窓から町を見下ろす。私の泊まった部屋は街中を向いてはおらず、郊外と田園と遠くの山並みが見えた。その中に茶畑があった。



嬉野温泉のお湯は美人の湯とも呼ばれ、お肌はつるっつるのぴかっぴかになった。
これはホール脇の足湯。焼き物の里に相応しいテーブルセットが置いてある。



夕食までの時間を利用して、温泉街へと向かう。ホテルの人に聞いても、町の人に聞いても、この道路だと言うのだが、まったく温泉街と言った風情はなく、普通の商店街で、賑やかさも・・・(内緒)だった。

 井手酒造・酒銘「虎の児」

商店街に酒屋さんがあった。造り酒屋なのだそうだ。九州は日本酒じゃなくて焼酎なのだろうと考えていたが、ここでは日本酒を出していると言う。山形の美味しい地酒で育っているので、やはり手が出なかった。その代わり、通路にフリーマーケットのコーナーがあって、ここで信じられない価格の焼き物が並んでいるのを見つけた。うふふ←買ったらしい。

九州の焼酎は、地域によって材料が違うのだそうだ。薩摩芋はやはり鹿児島で。他は麦、米、ジャガイモ、蕎麦、珍しい所で菱の実焼酎があった。宴会でご馳走になったが、値段が高い割に、温和しくてフルーティで、私には物足りなかった。



ホテルには素敵な焼き物が並んでいた。ん十万円の作品も、ずら~~っとあって、目の保養になった。

宴会の料理も美味しかったが、締めに出てきたお茶が美味しかった。普通の旅館では到底味わえないお茶と感じた。その反面、朝食の牛乳は脱脂粉乳の味がして、コーヒーはインスタントだった。お茶を飲め、お茶を買えと薦めているのだな。←お茶は買ったらしい。
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佐賀・建築士会全国大会

2010-10-26 00:49:34 | 
バスは、本来の目的である第53回建築士会全国大会のメイン会場である佐賀文化会館へと向かう。



佐賀の歓迎の看板の文字が、日本語以外にも並んでいる。やはり九州らしいと思う。酒田では中国語が消えてロシア語が入る。これも地域ならではのことなのだろう。



受付を終えて会場へと入る。



オープニングアトラクションは、碗琴演奏と、有田皿踊りだそうだ。2枚の皿をカスタネットのように鳴らしながら踊る。



会場もそろそろ人で埋まってきた。中央の赤い服の軍団が、多分来年全国大会開催の大阪の会員の方々だろうと思う。



司会の男性会員と女性のフリーアナウンサー

 

主催者挨拶と来賓の佐賀市長のご挨拶



表彰式が始まった。

 

賞状と記念品。実は、私も頂いた。記念品の中身は、ミケランジェロの楯だった。
良かった!灰皿じゃなくって。
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