中学の修学旅行は、東京と鎌倉だった。残念ながら鎌倉の方は、まったく記憶に残っていない。バスの中で眠っていたのを起こされたのだろう、大仏の前で集合写真を撮ったのが証拠として残っているだけだ。初めての東京は、都会だなと思った。高いビルがあったとか、人が多いからではなくて、宿泊先にたどり着く迄の細い小路も、アスファルト舗装されていたからである。その頃の酒田は、主要な道路以外は、雨が降れば水たまりが出来、晴れれば土埃の舞い上がる道が多かったのだ。
旧西高前の道路も砂利道だった記憶は、私が小学生の頃のものと思われる。ついでにその時は側溝もきちんと造られてなくて、道路の端には白獨したような水が溜まっているドブがあり、ボウフラやイトミミズが盛んに活動をしていた。
西高の前にはT眼科があった。こう見えても小さい頃の私は身体が弱く、始終、医者通いをしていた。ちょっと目を擦っただけで、すぐに結膜炎をも起こし、T眼科にもお世話になっていた。T先生は、他の人にはおっかない先生だったらしい。大人の患者をバシバシ怒っていたのを見たことがある。私には優しかった。いつものように目の洗浄をし、ネットリした薬を塗られ、カット綿を渡され、目に薬が充分に行き渡るよう揉むようにと言われていた。
いつもは待合室でそれを終えてから、ゴミ箱に綿を捨てて帰るのだが、その日に限って綿を目にくっつけたまま玄関を出た。両手で揉みながら歩いていると、目の前でゴンと大きな音がした。電柱にぶつかったのだった。ぶつかった勢いで、身体は後ろに、はじき飛ばされた。着地したのはドブの中だった。どっかのおばちゃんが「大丈夫か」と声をかけてくれ、急いで起き上がったが、恥ずかしいやら痛いやらで、後ろ半分を真っ黒の泥を着けたまま、わんわん泣きながら家に帰った。泣いている私を見て、母は叱らなかった。着いた泥の中にはミミズやボウフラもいただろう。想像は出来ても、自分で自分の後ろ姿を見ることが出来ないのが幸いだった。
どんな不幸にも、少しの幸いはあるものだ。
旧西高前の道路も砂利道だった記憶は、私が小学生の頃のものと思われる。ついでにその時は側溝もきちんと造られてなくて、道路の端には白獨したような水が溜まっているドブがあり、ボウフラやイトミミズが盛んに活動をしていた。
西高の前にはT眼科があった。こう見えても小さい頃の私は身体が弱く、始終、医者通いをしていた。ちょっと目を擦っただけで、すぐに結膜炎をも起こし、T眼科にもお世話になっていた。T先生は、他の人にはおっかない先生だったらしい。大人の患者をバシバシ怒っていたのを見たことがある。私には優しかった。いつものように目の洗浄をし、ネットリした薬を塗られ、カット綿を渡され、目に薬が充分に行き渡るよう揉むようにと言われていた。
いつもは待合室でそれを終えてから、ゴミ箱に綿を捨てて帰るのだが、その日に限って綿を目にくっつけたまま玄関を出た。両手で揉みながら歩いていると、目の前でゴンと大きな音がした。電柱にぶつかったのだった。ぶつかった勢いで、身体は後ろに、はじき飛ばされた。着地したのはドブの中だった。どっかのおばちゃんが「大丈夫か」と声をかけてくれ、急いで起き上がったが、恥ずかしいやら痛いやらで、後ろ半分を真っ黒の泥を着けたまま、わんわん泣きながら家に帰った。泣いている私を見て、母は叱らなかった。着いた泥の中にはミミズやボウフラもいただろう。想像は出来ても、自分で自分の後ろ姿を見ることが出来ないのが幸いだった。
どんな不幸にも、少しの幸いはあるものだ。