無題・休題-ハバネロ風味-

私の視線で捉えた世の中の出来事を、無駄口、辛口、様々な切り口から書いてみました。

利休

2013-07-16 18:16:47 | 音楽・芸術・文学

DVDのゴジラ1954年度版を返却しに行った際、ゴジラシリーズの中から1984年度版を片手に掴み、邦画のコーナーが何処にあるのか探しまわった。このTSUTAYA酒田店に入ったのは、過去1-2回ほどだろう。何が何処にあるのか、皆目検討がつかず、DVDを借りた記憶もない。もし借りる場合でも、買い物の途中に北店に寄るぐらいで、TSUTAYAが漢字で蔦屋と書くのも知らないほどの付き合いだったのである。

邦画のコーナーに、渡辺謙の「はやぶさ」を見つけてゴジラのDVDの上に重ね、数歩歩んだ所で三國連太郎遺作の「利休」をさらに重ね、疾風のごとくにレジへ進んだ。本屋で言う平積み、ましてや名俳優の遺作となれば、駄作になる訳がない。その考えは大当たりだった。

数コマ画面を観て、これは凄いと改めて時間を取って鑑賞することにした。千利休の話だから茶の世界、小道具から茶室まで、良い物があるのは当たり前だが、茶室などの建物に建築家の中村昌生氏が関わっているのに驚いた。中村昌生氏とは酒田市にある遊心館(茶室を含む木造の施設)の設計者であり、山形の山寺にある芭蕉記念館茶室も彼の手によるものである。平たく言えば、その筋の第一人者なのだ。

映画も素晴らしいが、こんな高名な建築家をスタッフにする監督とは、誰なのかとクレジットを見たら、勅使河原宏だった。作品の前半にイサムノグチ蒼風に捧ぐだったか、テロップが入っていたので、まさかまさかと思っていたら、やはり土門拳記念館の庭の設計者だった。その名前でも判る通りに華道家なのだが、映画監督としての才能も優れている。天はこの人に二物も三物も与えたようだ。1964年、安部公房原作の「砂の女」の映画監督だった。それならば仕方がない。

映画そのものも面白かったが、御茶の点前、茶室の造りでは、巻き戻しや一時停止をしながら勉強が出来る代物だった。「得しちゃった!」と笑う自分がいた。

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手塚治虫×石ノ森章太郎

2013-07-16 13:04:52 | 映画・TV

終わってしまってから記事にすると言う、私のいつものパターンだが、NHKBSの「手塚治虫×石ノ森章太郎 特集」の最終回は面白かった。かたや漫画の神様の手塚治虫と漫画の王様の石ノ森章太郎。年齢は10歳違い。売れっ子になっていた手塚が高校生の石ノ森に「手伝わないか。」と誘ったのが二人の関係の始まりだった。二人がコラボした鉄腕アトムの原稿も残っているという。

手塚が「鉄腕アトム」の連載を始めたのが1951年。あのアトムのロボットとしての足首の方が太い体型は、現在のロボットアニメの原型だと思う。51年にあれほどの未来の予想図が出来ていたのなら、54年のゴジラ制作とて十分に想像はつく。テレビが普及する前の、貸本屋があった時代。手塚漫画はいつも貸し出し中だった気がする。確かに手塚治虫は漫画の第一人者であり、後の漫画界と日本のアニメ界を引っ張っていった天才だと思う。ただどちらがより才能があっただろうと考えた時に、もしかすると石ノ森だったのではないかと私は思う。宮城県の登米市に彼の生家があり、すぐ近くの記念館に訪れた時に観たサイボーグ009から仮面ライダーやゴレンジャーなどの戦隊物と、佐武と市捕物控に至るまで、その作品のジャンルは幅広く、素人の私は驚きと感嘆の声をあげたものだ。

石ノ森作品の「ジュン」に手塚が嫉妬したと言うエピソードは面白かった。最初は酷評したにもかかわらず、傷心した石ノ森が連載を止めようと告げたら、手塚が夜中の石ノ森のアパートに謝りに来たそうだ。手塚は、若い作家や自分の想像を超えた作品に、よく嫉妬したようだ。特集の対談の中で大友克洋の名前が挙がったのも嬉しかった。

さて、手塚治虫×石ノ森章太郎コラボ展が、東京都現代美術館で開催されている。期間は6月29日から9月8日だ。現代美術館は最寄り駅から遠いんだよね。そのあと、各地を巡るようだ。宮城県は来年なのか。

■巡回館
 広島県立歴史博物館:2013年11月15日(金)~2014年1月5日(日)
 大阪歴史博物館:2014年1月15日(水)~3月10日(月)
 山梨県立博物館:2014年3月21日(金・祝)~5月19日(月)
 宮城県美術館:2014年5月31日(土)~7月27日(日)

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Eテレで放送されていた日曜美術館だが、岡倉天心の話も面白かった。絵の才能も素晴らしいのだろうが、岡倉は人物としても興味深い。言語が堪能だったそうだが、ニューヨークで「アー ユー チャイニーズ オア ジャバニーズ?」と現地の人に尋ねられた時、岡倉はこのように返したという。「アー ユー ヤンキー オア モンキー?」 相手は笑いながら逃げて行ったそうだ。岡倉天心の書いた「茶の本」は面白いらしい。

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