月曜日、午後3時を回った辺りで土門拳記念館に出かけた。その前に寄った美術館は月曜日が休館日だった。あら、残念。
駐車場を降りて、体育館を望む。ここだけ少し紅葉していた。
通路を歩いていると、猫とじゃれ合う幼い子がいた。猫はこの辺りに住んでいると思われる。人なつこい猫だった。
記念館の池では、鯉の他に鴨たちが餌をくれとねだっている。スワンパークでは禁止されている餌付けは、ここでは声高に叫ばれていない。
鯉の中には、錦鯉も混じっている。
土曜日のローカルTVに土門拳記念館の館長さんが出ておられた。30周年を迎えて、特別な古寺巡礼展が開かれているそうだ。この建物が30年も経ったなんて信じられないほどの美しさである。
今回の古寺巡礼は確かに凄かった。離れの部屋では日本の文化と女優さん達の写真だったが、それ以外は全て古寺巡礼だった。今まで見たこともない写真が多く、十一面観音の恐ろしさに震え、イケメンの帝釈天にウルウルした。これはもう一度来なくてはと思った。
秋の日はつるべ落としで、辺りは暗くなった。入り口には閉館の立て札が置かれ、私は入り口を迂回してイサムノグチの彫像のある所まで歩いて、写真を写した。(可哀相に、写真の右側にぶっちり半分切られているのがイサム・ノグチの彫刻「どもんさん」である。)これは離れの方をフラッシュを焚いたので明るく映ってはいるが、実はもうとっくに日は落ちていた。夜の土門拳写真記念館も綺麗である。
さて、この離れの一室に(とは言っても、いつもは休憩室のような一画なのだが)テレビがあり16分のDVDが流れていた。これはいつも見られるのか、時々違う物に変えられるのかは判らないが、土門拳の半生記をうんと縮めたような映像であった。土門拳は酒田に生まれ、7歳までしか住んではいない。それなのに、私の祖父は彼を覚えていた。「ああ、あの悪ガキか!」子供の数の多かった昔に、何故に人の記憶に残る印象があったのだろうか。それは彼の中学の時の写真で判ると思う。この眼力と言うか、眼の鋭さは未だかつて見たことがない。歳を重ねるにつれ、時々は優しい眼になって行くが、カメラを手に対象に向かう時にはこの眼になる。リアリティを追い求めるしつこさ、好きな物だけを捉え、妥協を許さない鬼、対象が子供であっても可愛く撮そうなんてこれっぽっちも思っていない。それでいて、この生き生きした表情の捉え方は何なのだろう。それに引き換え、風景を撮したゆるゆるの緊張の無さは何なんだろう。
いやはや、土門拳は不思議で面白い人物である。帰りに売店で「木村伊兵衛と土門拳」の単行本を買った。1400円(税別)である。「並んであるのが最後で、後は絶版になるようです。」とは店の女性の話である。残りは2-3冊。木村伊兵衛とは、あの「秋田おばこ」を撮した写真家である。「木村伊兵衛と土門拳」の企画展を見逃した私の最後のあがきでもあった。