羽黒山奉納茶筅供養の記念講演で、遠州七釜高取焼十四代 高取 忍氏による講演会が行われた。
会場は清水屋の6階である。昨年の酒田祭りの時の下の日枝神社の神宿会場になって以来、ここにはご無沙汰していたが、内部が綺麗にリニューアルされ、ホテルの会議室並みになっていた。
遠州七釜高取焼は、筑前黒田藩のご用釜で、400年の歴史があると言う。この筑前とは現在の福岡県で、黒田藩とはNHK大河ドラマで放映中の黒田官兵衛が藩祖であった。高取釜をググって行くと、この黒田官兵衛をとりまく有名人達がゾロゾロと出て来るではないか。千利休が茶道を画一して行った頃で、道具の重要性も高まり、小堀遠州由来の高取焼きもその流れで誕生する。
講演は、焼き物はどうして出来たのかから始まった。縄文時代に粘土質の場所は動物の足跡が残る。砂地は残らない。捕まえた獲物を粘土質の上で木の枝を掛けて焼くと、獲物はこんがりと美味そうに焼け、ついた足跡もしっかりと形になって残った。また出来た灰が釉薬になり、焼き物の表面が色艶も良い物になった。そんな偶然が積み重なり、人間は粘土を形作り焼くと、丈夫で使える器が出来る事、釉薬で美し色や模様が出来ることを知り、さらに進歩させて行く事になる。
高取窯のルーツは、高麗にあると言う。高取の高は、鷹の字だった説もあると言われるが、実は高麗の高だそうだ。秀吉の朝鮮出兵の時に、すでに高麗は滅びてしまっていたが、窯場の腕の良い陶工を日本に連れてきた。朝鮮での陶工の身分は低く、名字も与えられていなかった。朝鮮は面白い国で、働く人は身分が低く奴隷のような立場になる。両班と呼ばれる貴族の身分は、働かずに他人から徴収するのみだ。この身分制度は日本の士農工商の比ではなく、差別は厳しい。日本に渡った陶工達は手厚く保護された。黒田藩では70人扶持の米と名字帯刀を許され、ご用釜をまかされた。その為、朝鮮に連れ返される段になって、医者などの身分の高い者は戻って行ったが、陶工達は嫌がり、一時姿をくらましてさえ日本に残ることにしたと言う。戻れば奴隷の身分が待っているからだ。それが高取釜の場合も直系で現在に繋がっているのだそうだ。
高取焼きは薄くて大胆な焼き物である。見た目よりも持ってみると軽い。一つ一つに謂われがあり、その製法やろくろの回し方、糸で作品を粘土から切り離す時の方法やらを伺った。粘土の水分が多いせいか、作った時より焼いた後は20%大きさが変わると言う。
また焼き物の色だが、これは釉薬と粘土で決まる。いつだったか、剣道の関係者達が集めた竹刀の灰を利用して、沢山の器を作り配った話もされていた。釉薬は単に灰だけでなく、長石を砕いた物や高取秘伝の釉薬も混ぜて使うそうだが、鉄分が入ると茶色になるのだそうだ。
今回の茶筅供養も30年目を迎え、と言うよりか一区切りをつけ、御炊きあげした茶筅の灰を利用して釉薬にした器を作成しているそうだ。30年間貯めてきても、茶筅の灰は極少なく、沢山の作品を作るのは無理だそうだが、どんな色に仕上がるのか見てみたいと思った。