6月15日、羽黒山神社で茶筅供養が行われた。始まりは昭和60年の6月15日だったそうだ。流派を超えた茶人達が集まり、湯殿山神社の丑年の6月15日に初めての茶筅供養が行われた。記念の石碑も建っている。
合祭殿で、献茶、祝詞、玉串奉奠と全員のお祓いや金幣拝戴を終えた。そこでは写真撮影が出来なかったが、ズラリと並んだ若い祭司さん達の佇まいの美しさにほれぼれとした。拝する時の動きでも、陰では腹筋をかなり使っているだろうこと、拍手でも緩やかに手を運ぶのに、音がスパーンと遠くまで大きく響くことに驚かせられた。
合祭殿の行事を済ませた後に、霊祭殿に向かう。ここでは供茶、祝詞で茶筅供養が行われた。
ここが霊祭殿である。この辺りでは、昨年あらぬ所を撮したら、あらぬモノが写ったので、今年は気をつける。
この奥の石碑の前で、茶筅のお焚き上げを行う。右側の斜面には、東日本大震災の供養塔が並んでいる。
神主さんのお祓いの後、神林氏によるお焚き上げが始まった。皆並んで、それぞれ茶筅と1本の線香を炉にくべる。
その後は、参集殿の2階に集合し、茶筅供養塚建立者の神林氏の挨拶の後、基調講演で高取焼十四代 高取忍氏のお話をお聞きする。高取焼きは黒田官兵衛の黒田藩の御用釜である。高取焼きのロクロの回転方向、焼き物の基本から、天目茶碗や井戸茶碗に至るまで、興味深いお話をお聞きすることが出来た。
実は、この会の発案者である萬谷和子さんが、昨年の三十周年を期に代表を退かれたが、その30年間に集めた茶筅供養の灰を纏めておられて、その灰を釉薬に使った茶碗を高取氏に発注されていた。供養灰の茶碗と銘々するには、その割合が51%以上でなければ成らず、その他の藁灰や焼きの折に付着する薪灰も考慮すると大層に難しかったらしい。単にその割合で焼けば良いのではなく、ねっとりとした釉薬がかかった美しさも追求せねばならぬ事、供養灰が少量であったことも加味しなければならなかった。全部で120個を制作したが、半分は気に入らなかったので割り捨てたそうで、限定60個しか残らなかったようだ。勿体ない話である。
これがその天目杉形竹節高台の供養灰茶碗である。形が杉の幹を模していること、高台は外側の底が薄く、器の底が深い。茶を点てるのが簡単ではない茶碗らしい。黒く仕上がった美しい茶碗である。ロクロの回転方向の為に、出来上がった器は真円にはならないらしい。必ず歪むそうだ。また釉薬の一部に用いられた藁は、高取氏が自ら植えた無農薬米で作ったものであり、作業は1年かがりとなった。
今年の昼食は齋館でなく、齋館から運ばれた山菜のお弁当だった。左上から羽黒山の名物胡麻豆腐(餡のなかには百合根とシオデが入っていた)中央上がワラビ、下がドゴイ(イタドリ)とトマトの酢の物、右上がウドのクルミ和え、下がアオミズと菊のお浸し、左下が月山竹のご飯、キュウリの粕漬け、右下が赤ミズと薄揚げの炒めものである。
ナデシコの和菓子
抹茶のお点前を頂戴した。
この会の楽しみの一つに、参加された皆さんの和服と帯を見ることがある。
若い人に似合うピチピチの着付けと違い、着慣れたゆったりとした着こなしにも目を奪われる。