無題・休題-ハバネロ風味-

私の視線で捉えた世の中の出来事を、無駄口、辛口、様々な切り口から書いてみました。

奈良・1日目

2016-07-25 22:21:18 | 

十数年ぶりに、全国女性建築士連絡協議会・奈良大会に参加する。日本海側のJRが不便になって以来、奈良に行くには山形空港から伊丹空港経由で奈良に向かうのが速い。寝坊してはならずと早めに山形空港へ着く。誰もいなかった。少し不安になる。

山形空港は、神町空港と呼ばれていた50年以上も昔に訪れた事がある。建物の記憶はない。「おいしい山形空港」を撮そうとカメラを取り出したら、シャッターが降りなかった。カードが入っていない。パソコンに着けたままだった。これがアクシデントの1回目。買おうと思ったが、空港の売店にもなく、伊丹でようやく手に入れる。

飛行機は4列の小さな機体だった。せっかく窓際の席をゲットするものの、雲の上を飛行するだけで何も見えない。密かに富士山が見えないかなと期待したが、ルートが新潟経由だった。綿飴のような雲を突き抜けると大阪の町が見えた。あれは大阪城ではあるまいか。

伊丹にはすんなりと降りた。羽田並みの大きさを想像していたが、さほど大きくはない。この伊丹空港と大阪国際空港の関わりを聞いていたので、複雑な気持ちになる。ただし、やはり街中の便利な足だと思う。

外は暑かった。リムジンバスで奈良へと向かう。時間にゆとりはなく、昼食はコンビニで買いバスの中で食べた。

奈良に近づくにつれ、家々の間にこんな建物が出現する。これは平城京跡だと思う。

近鉄奈良駅前でバスを降りる。会場の奈良女子大までは、徒歩で進む。素敵な小道を歩いたのだが、帰りも同じ道だと思い、撮して来なかった。帰りはタクシー移動だったのに。

奈良女子大は、108年前に創立された女性の教育者を育てる日本でも古い学校だそうだ。

その講堂が会場だった。

受付を済ませる。

前日に委員長代理で前乗りしていたHさんが、前の方の席を確保してくれていた。(この椅子は座っているのが辛かった。皆さんお尻が痛いと嘆いていた。)

 連合会会長

開会式が始まった。

来賓の挨拶が始まる。

基調講演の岐阜大学名誉教授の渡辺先生のお話は面白かった。最初に舞台に現れた時、手塚治虫氏かと思った。講演は「日本の暮らし・豊かな生活文化の再発見」で、日本の住宅の段階的成長の中で、窓を開けない日本人が増えてきていること。畳の文化は消えてしまうのか、逆に海外で家の中は靴を脱ぎ、床に座る生活が広がっている。和室に学ぶべき知恵が詰まっていることが順を追って紹介された。

これからの住宅には、季節感を取り戻す必要があること、住宅に限らず食生活にも日本の複雑な季節感が必要であること。また水道、電気、ガスで激変した住宅の次は、必ず新たな進化の時代を迎えるであろうと3つの課題を挙げられた。

パネルディスカッションは同じく「日本の暮らし 豊かな生活文化の再発見」と題し、進められた。ここでもキーワードは「床」だった。洋式の部屋は家具があることで成り立つ。和室は多目的で使い方が固定されていない。曖昧さが魅力の一つでもある。

介護の面で、畳を無くしバリアフリーを進めてきたが、あえて畳の上での布団の生活は、個人の体力の向上に繋がる。椅子やベッドの生活は楽ではあるけれど、体力は落ちていくと湯川氏はリハビリの施設運営の上からの助言だった。

久しぶりの全建女だが、内容もレベルアップしている。コーディネータの女性委員長の無理矢理の采配に、受けて立つパネラーもさすがである。

 

次に、被災地からの現状報告として、岩手県(内陸地震)、宮城県(東日本大震災の津波)、福島県(放射能)、茨城県(水害)と熊本県(地震)の発表があった。熊本県を除いては準備の時間があったので、冊子になった報告書を見ながらの発表に耳を傾けたが、熊本県はそのゆとりが無く、それでも画像を示しながらの報告となった。

4名の発表者が自分の地区と応急判定、建築士が地震の被害者と向き合う様子が語られたが、建築士自身が被災していることと、今まで地震を体験した事がなかった為に、最初に何をしたら良いのか、まったく要領が掴めなかったことが話された。

ただ、東日本大震災を経験した福島県に、被害の様子などを視察し建築士会通しで意見交換を行っていた為に、救いの手を福島に求めた。すぐに福島は動き、ネットワークの重要性に気がついた。

連携が取れて、なんとか動くことが出来た。ただ、度重なる余震で、未だに車の中の生活をしている人もいる。応急判定の赤黄青のシールに、住民への説明がうまく伝わらない様子も見えた。

いつでも、どこでも災害はやってくることを、覚悟し準備することが必要だ。

さて、時間は押し気味だったが無事に終了し、タクシーに便乗して懇親会の会場、JR奈良駅近くのホテル日航奈良に向かう。今回の私達の宿泊先のホテルも近かったので、一度チェックインし、身軽になって出かけた。懇親会はすでに始まっていた。

男性達の懇親会とは違い、女性達はまず最初に食べるものがなくなる。手分けして料理をかき集め、テーブルをゲットする。

まずは腹ごしらえである。

せんとくんが現れる。

くまモン募金箱を抱えた委員長も現れる。

今回の準備をしてくれた近畿ブロックの会員達。拍手!!

お開きの後、お腹はいっぱいだが、時間が早い。よし2次会に行こうと歩き出した。

駅前の贔屓屋と言う居酒屋に入る。

杉の香りがした。

上も下も表面張力している「もっきり」にどっきり。こうして1日目は更けていった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奈良・二日目・分科会

2016-07-25 22:18:26 | 

2日目の分科会会場は、奈良公園の中にある奈良春日国際フォーラム甍(いらか)だった。

玄関脇の石庭には、鬼瓦などのオブジェが並んでいる。

甍の名前の通り、屋根が素敵だった。

目の前には、奈良公園が広がっている。

山形美女達におびえる子鹿。

分科会は8つに分かれる。私のE分科会は「景観まちづくり」で、2階だった。

コメンテーターは石川県。およそ35人が集まっている。ちょっと会場が広すぎ。

石川県七尾町のまちづくりに建築士会が関わる様子が伝えられた。

住民達の結束は祭りに紹介される。

2度の大きな火災で、街並みが変わったことと、歴史が紹介される。

ここに嫁ぐのも大変なようだ。親と別れの水杯を交わす。

その結婚式の1週間だけ飾られるのれん。一生に1週間だけだそうだ。

七尾市には古い町屋が残っている。その子供達を中心に行っている。これは大人の部。

同じ北前船の湊町なのに、町屋の建て方が違う。七尾市も同様北陸では、屋根が平入りである。隣とは殆どくっついている状態で、火災よけのウダツも付いている。この平入りは雪の為らしい。

発表後、質問と意見交換会が行われた。手ぶらで聞くだけの参加も自由だが、もし発言する機会があるなら、自分たちの資料を持っていくことをお薦めする。聞いた話の記憶は消えるが、資料があると内容を思い出す。

ちなみに、私も急遽資料をこしらえて参加した。行政主導のゆるい規制の金山町100年運動。

民間が主導し協議会を作った規制の強い天童市の街並み。出発時の22日の0時頃、プリンターをビコビコしたのだが、途中でトナーが切れて焦った。仕方がないのでコピーする。持っていった数は22枚、35人には全然足りない。事前に人数を確認するべきだったのだが、忙しい女性委員会に問い合わする力がなかった。以前は個人情報法がなくて、名簿のような物が手に入った気がしたのだが。

分科会が終わり、全体会は能舞台のある会場で行われた。桧の香りが漂っていた。

各分科会の発表。

最後に、全建女の場で集められたクマモン募金(小銭が多いので、重たいようだ)が、委員長から熊本県の委員長へ手渡される。熊本の委員長さんは、挨拶の途中から涙声に変わって、女性建築士の繋がりって良いなと思った。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奈良・二日目・斑鳩の里

2016-07-25 21:51:43 | 

分科会を終え、大人の修学旅行が始まった。これは奈良建築士会が準備してくれたエクスカーションである。10コースある中で9番目の斑鳩の里めぐりに応募した。

車窓から見えるのは、山形の高速道路ではお馴染みの(とは言っても山形のはカモシカだが)鹿に注意の交通標識が見えた。

遠くに見えたのは、奈良郡山市の公園の城。

法起寺は車窓から

駐車場に入ったので降りる準備をしたら、方向回転しただけの法輪寺。これも車窓から。

集落の家並みは綺麗だ。

昼食会場に入る。

長屋門を改造したカフェ

吉野杉のベンチ

お洒落な昼食。左の冷えた三輪そうめんが美味しかった。

宮大工の西岡常一の祖父が建てたと言う住宅。屋根のむくりが素晴らしい。格子も4種類を使っている。残念ながら見学は出来なかった。

ボランティアの案内人が到着し、見学が始まった。

土塀は、五層に分かれているが、一番下の一層目は幅が1mほどあると言う。一層毎に造られていく。五層と言うのは珍しいのだそうだ。

本物を観ると、奥州藤原の里のセットが悲しくなる。

案内を務めてくれた方は、昔建築の仕事にも就いたことのある方で、詳しかった。ボランティア以外に有償でも案内を行っているとかで、私達の為に図面を用意してくれたり、本当に有り難かった。

5人くらいの班に分かれての見学だ。

 

皇室縁の尼寺。瓦の菊のご紋が、それを物語っている。

多分、これは吉田五十八設計の中宮寺(RC造である。)弥勒菩薩が国宝になっている。良いお顔をされていたが、撮影は禁止。この弥勒菩薩は確かに有名で、つい先日まで韓国に展示用に貸し出されていた。韓国の弥勒菩薩と対面して飾られていたが、本当にちゃんと戻って来るのかと心配もした。無事に戻ってきたので、こうして我々がお顔を拝見できるのだが、写真などで見ていた物より本物は、真っ黒だったのに驚いた。

そこの回廊から見える夢殿。夢殿にも行けなかった。酒田の光丘文庫のお経のこともあったので、入りたかったのだが。ともかく、法隆寺には数時間で全部を見ようとするのは無理のようだ。なにせ、日本の木造建築の原点がある。(ただし縄文文化の建築は除く。縄文の建築もすごいぞ!)

宝林だけご覧遊ばせ。

東大門に向かう。

古くも新しくても継いでいる。

門の屋根の大きさから、塀の厚みが判るかと思う。

ともかく、屋根瓦の見本市のようである。

法隆寺には横から入る。

暑い。蝉の声が聞いた事のない鳴き方をしていた。

本来なら、こちらを通って法隆寺に入る参道だ。

残念ながら東大門は修理中である。ともかく、修理中の神社仏閣が多い。

五重塔は、大きい感じがする。

この回廊も国宝

金堂。飛鳥時代の様式で一番古い。この中には火事で焼失された、あの有名な壁画が描かれている。その修復には多くの画家が携わったが、どの部分を描くかで権力争いもあったらしい。誰でもが、有名で大きな面を描きたいと思っていた。その中に若い頃の平山郁夫もいたと言う。彼の担当した場所は何処なのか、「多分、隙間のような小さな場所だと思うよ。」とは案内人の言葉。

その壁画を見るにも、本堂の廊下から建具を挟んで眺めるしかない。本堂の内部には一般人は入れない。しかも、坊さんが廊下の隅で、我々の講堂をチェックして、不作法な動作、いかがわしい場合は飛んでくる。美術館の展示室の隅に座っている女性の坊さん版と思えば良い。ただし、こちらは実力行使が可能だと言える。だって、国宝だもの。

五重塔と金堂から大講堂を見る。

本来なら、この建物内には一般の人々は入る事が叶わなかった。その為この石の上に立ち、参拝したと言う。石は左右2箇所にあった。

建物の様式は、飛鳥天平白鳳と、年号では無い分け方で分けられているらしい。どちらが古いかを見定めるのが屋根に使われた木端の造りに現れていると言う。

金堂の飾りに見える龍などは、実は添え柱として屋根を支えている。

古い時代の垂木は一重で、年代が下る毎に二重三重と豪華になっていく。

ここが一番良い撮影ポイントだよと教えて頂いた。実は普通の観光ならすんなり全体を案内して終わるのだが、我々の疑問に答えるために、逆流(出口から逆に入る)して、金堂に再び入り、説明して貰う。

実は虎ノ門ニュースの火曜日の百田さんのコーナーで、日本の大工と木材の話が出ていて、ノコギリが歴史の上に出てくるのは室町頃だったとの話に、一枚板を作るのにも、格子を作るのにも槍鉋がメジャーだったんだと納得する。いやはや、ノコギリがないのか。

この反った梁が力学的に有効。束が無い。柱はエンタシス。新しく通路をL型に手直しした所の梁は、そりが無かった。

仏教では格子とは呼ばずに連子と呼ぶ。見えなくする為ではなく、格子部分よりも空間が広く風通しに用いられた。しかも面白い事に連子部分の材料を後で繋ぐのではなく、一枚板をくりぬいて用いられている。金堂の扉も同じ造りになっていた。昔の職人のすごさがわかる。

宝物殿に行く。案内人は、建築に携わっているなら、仏像では無く「玉虫厨子」を良く見た方が良い。建物は年代毎に作り替えたり修理して様式が変わることが多いが、この厨子は本来の建築様式そのままの状態で残っているからだと言う。

もう、我々の文化財の範囲はそこそこ何百年であるが、千年を超えないと認められない奈良の人の話である。

法隆寺を出て、参道沿いの土産物屋に寄る。

両側に土産物屋が並んでいるが、他の地域と違い、商売っ気も薄く鷹揚なのが奈良の人の気質らしい。

この中央が本来の参道である。皇室の方しか通れないかと思っていたら、一般人でも平気のようだ。

法隆寺 i センターで、西岡常一の道具を見る。

道具を見て驚くのは、綺麗なことだろう。写真は撮してきた物のほんの一部だが、大工は道具が命と大事に使ってきたのがよく判る。

私の父も大工で、子供の私はその道具が面白そうで触ると、ドカンと父の雷が落ちたものだった。

これは槍鉋(やりがんな)。

センターを出て、バスは近鉄王子駅に着き、解散となる。あら、法隆寺駅でも良かったのに。

暑い二日目だった。宮城県の女性建築士と合同で夕食会場に入る。この大人数を受け付けた有り難い居酒屋である。

居酒屋の最初の店員さんは、地酒の事は何も判らなかった。

次に入ってきた店員さんは「楯の川や十四代がゴロゴロしている山形県人」を前に、奈良の地酒はあまり褒めた物が無いと正直に言う。取り立ててすすめるなら、この酒だそうだ。

色々と教えてくれる。こうして二日目は過ぎていった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奈良三日目・東大寺

2016-07-25 20:40:03 | 

3日目はフライトまでの時間、午前中に出来る市内観光をした。この建物は旧JR奈良駅。保存され、観光案内所やカフェとして使用されている。

このモニュメントの赤い柱は木材だった。背割りしていないのに、割れが少ない。

駅前ロータリー

観光バスに乗る。一日がかりのツアーで、午前中で降りる事が出来る。ガイドさんは、室井滋似の優しい女性だった。ただアクセントに関西訛りがある。

最初は東大寺だった。駐車場から境内に入った頃から、獣臭い。鹿のせいだ。これは大きな南大門。

 

池に船が浮かべてあった。

中門。

門を抜け入場チケットを手に入れて回廊をあるくと、金堂(大仏殿)が見えた。

この回廊の梁は、真っ直ぐである。

参道の中央の黒い敷石はインドから、横に中国、朝鮮と続いて広い部分が日本の石だそうだ。

唐破風の下の中央に、窓がある。これは中門から大仏様のお顔が見えるようになっている。

灯籠で、これにも灯が点るそうだ。

一番美しく見える場所だそうだ。

大仏様の左横に座っておられる虚空蔵菩薩。知恵の仏様

左後方の広目天。

右後方の多聞天。

大仏様右側の如意輪観音。慈愛の仏様。虚空蔵菩薩と併せて、自分に足りない部分を拝むと良いそうだ。

右からの大仏様。正式な名前があるそうで、盧舎那仏坐像と呼ぶ。・・・・読めない。

大仏殿の中の土産屋と、大仏殿の架構。隅だけ斜材が入っている。

大仏さんの裏にも、面白い物が並んでいる。これは柱材。建立当時の模型もあったが、現在と比べて敷地も広く、建物も両側に五重塔があった。焼き討ちにあったり、落雷での火事もあったらしい。現在は五重塔は一棟もない。

大仏さんの鼻の穴と同じ大きさ(直径40cm)で、穴くぐりをすると、幸せになると言う。挑戦している強者がいた。

こちらは戻りの回廊の土産屋さん。

五重塔は九輪だけ。

東大寺ミュージアム。

ミュージアムの看板の前の鹿

鹿のいる辺りには煎餅屋がある。煎餅を買った人間は、必ず大勢の鹿に襲われるストーリーが出来ている。

それがこれだ。近寄られても、触っても臭い。ただ、だんだん鼻が慣れてくるのが不思議だ。彼らは煎餅が主食では無く、広大な奈良公園の芝生の清掃係である。人間が芝刈りを行う事はないと言う。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奈良三日目・春日大社

2016-07-25 18:19:12 | 

春日大社に移動する。私達は観光バスを使ったが、地図を見ると歩いていけない距離では無い。

春日大社では、式年造替が行われていた。伊勢神宮は式年遷宮(新しい社を造って移る)だが、ここは同じ場所に造り替えることである。

その造替に必要な浄財出者達の名前が並んでいる。

春日大社では、灯籠の数が三千基以上もあると言う。現在も増え続けている。2月の節分、8月14-15日の年3回、この全ての灯籠に灯が点る神事が行われる。

神が白鹿に乗って現れたそうだ。

さぁ、もうじきだ。

石灯籠の他に、吊り下げられた灯籠の数も多い。

春日大社には、山藤が多い。巫女さんの頭にも藤の花が飾っている。

鹿がおみくじを咥えている。仲良しになった姉妹に見せてもらった。

おねえちゃんは、大吉だよ。

お社(中には第1殿から第4殿まである。)には一般人は入れない。しかも撮影不可である。

この辺りはパワースポットらしく、カメラが写らない現象が多いと言う。

左側には大きな杉のご神木が立っていた。そのご神木の前に奉納された宮家の方々のお名前が並んでいる。1つの宮家の名前がないことは、随分前から問題になっていた。この宮家は、天皇陛下の生前・・・の噂が流れると、神武天皇陵に参拝した。愛子親王は生まれて初めての参拝だと言う。この宮家は、自分の立場がなんたるか、仕事もする気が無いように見える。

写真は、何のアクシデントも無く写った。

灯籠は1基づつ個性がある。

 

御蓋山浮雲峰遙拝所

春日大社に限らず、神社のご神体は鏡である。ここは山そのものが神として崇められている。目の前の山には一般人は勿論のこと、限られた人間が禊ぎを行った後で無いと入山できない。八百万の神しかり、日本人の宗教観は、このあたりにあると思われる。

本宮は造替の真っ最中の為、神様は御仮殿に移されているので、拝んでも駄目だという。

御仮殿に向かう途中、屋根から神木が突き抜けているのを見た。

その下の部分。これは建物が出来てから木が生えたのでは無く、逆なのだと言う。木にとって嬉しいのか悲しいのか。

屋根瓦の隅に桃があった。

普段は灯籠に火は点っていない。それを再現した藤波之屋。

色々見たい所はあったのだが、通り過ぎるだけ。

日本人は、赤く塗られた柱よりも、この生地色の方がなじむ。

帰りは別のルートを通る。

鹿煎餅を貰って手に取ると、すぐに鹿が近寄ってくる。可愛いけど汚くて臭い。神のお使いの鹿に襲われる。

暑い・・・・。

次に移動する。これは奈良県庁舎。入り口にせんとくんがいるのだと言うが。

 

 

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奈良3日目・興福寺(最終)

2016-07-25 18:08:06 | 

最終目的地の興福寺に着く。ここの時間の大半は、この国宝館で終わった。あの有名な阿修羅像を始め、とにかく国宝が多いのだとか。

国宝館の後ろに見える若草色の山は、その色の通りの若草山である。春の野焼きでも有名だが、三つの峰があり三笠山とも呼ばれている。

勿論、内部は撮影禁止なので、売店で写真集を買ってくる。

これは、享保2年(1717)の大火で焼け落ちた中金堂の再建を行っている。完成は平成30年の予定。ともかく檀家のいない寺は、予算を確保するのが難しい。阿修羅像などを他の国や美術館に貸し出しする事で資金を稼いでいるのだそうだ。

私達は、ここでバスと分かれた。砂利の中をケースを曳きづり歩くのは大変だ。  暑い。

東金堂に入るのもチケットが必要なので、遠くから眺めるだけにする。

南円堂を見る。

長い下り坂を下りて、昼食の柿の葉寿司を買いに行く。 暑い。

このアーケードの先に店はあると言う。

この店の奥で、食べるつもりだったのだが、人数が多いので席が足りなく、持ち帰りになった。またバスの中だ。

近鉄奈良駅のすぐ傍だった。我々が歩いたのは一日7000歩は超えていると言う。(最終的には2日続けて、平均1万歩/日近くなった。) 暑い。

歩き回るのも疲れたので、甘い物の店に入る。店先で色々試食して、かき氷の看板に引きつけられて奥に入る。

宇治金時

抹茶ラテ。冷たい物の横に、暖かい番茶が付いた。これは有り難い。

しばし、足を休める。

バスの中で昼食を済ませ、少しの惰眠の後に、伊丹空港に着いた。

空港内で、買い忘れたお土産を詰め込む。

羽田空港同様、山形行きはゲートの最後尾だった。グダグダ動く。

JALの小さな飛行機。

帰りも雲の上だった。新潟の村上上空から内陸に入る。山形空港にすんなり降りるのかと思いきや、グルグルと上空を旋回する。風の向きが悪いのか、予定よりも時間が掛かった。

解散式を終えて、それぞれ帰途につく。

私はその後、腹ごしらえをしようと出向く先々で、本日終了の憂き目を味わう。

やっと有り付けたのは、新庄市に入ってからだった。食べ終わると夜の8時は過ぎていた。

奈良で食べた麺類は、三輪そうめんだけだったなと思い出した。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする