9月2日、女性建築士会東北ブロック会で、福島の見学会が行われた。通常のシンポジウムは行わず、皆が1台のバスに乗り地図にある通り、福島市から富岡町までを移動した。東日本大震災で地震や津波で被害を受けたのとは別の被爆と言う現実を見学した。
2011年3月13日、電源喪失でメルトダウンを起こした福島第一から、風に乗って放射能物質を含んだ風が吹き、飯舘方面へ流れた。被爆は同心円状に起こるのではない。チェルノブイリの事故で言われていたことを、あの時期の日本政府は避難に使わなかった。それどころか、気象庁に風向きを発表しないようにと圧力を掛けた。その結果の地域を、今回はなぞって見学する
6時半頃、酒田チームは出発した。東北中央道が開通すれば、もっと近くはなるのだが、ここは普通に山形道から東北道に抜けた。途中、道路が曇っている。見れば発煙筒が焚かれて警察が誘導していた。事故だった。
この頃から雨になり、暗雲立ちこめる前途にちょっと気持ちが萎える。
きびきびした運転のお陰で、集合時間よりもずっと早く集合場所の福島駅前に着いた。以前、JRで福島を通過した時には新幹線だったので、上に見える新幹線駅と在来線駅が違う建物だったのに驚く。こちらは福島駅西口。
集合までに、しばしの腹ごしらえをする。山形の内陸チームも無事に到着していた。マックダーガーのコーヒーは薄くて不味い。
無事にバスに乗り込んで、乗員点検をする。時間少し前に出発した。
バスの中で線量計が渡される。駅前出発時は0.080程度だったが、バスが動くと数値も動く。福島第一から離れた福島市でも、数値の高いホットスポットがあると聞いてはいた。「住宅の隣に、汚染土を積み上げ緑色のシートで覆った物を見て!」とアナウンスがある。時期が来れば、土の運び出しを行うのだと言う。福島県だからこそ、きちんと線量を計測して、除染すべき所とそうでない所に分け、処置が出来るのだと思った。近隣県でも数値の高い場所もある。それがうやむやにされている気がする。
市内を離れると、田んぼに出た。定期的に数値を計る為に、稲が試験的に植えられている部分と、植えられていない部分がある。黒い袋(各1t)に運び出された汚染土を入れ、積み上げられている。
その上をシートで覆った物が続く。袋は強度上、3個以上積み上げられない。
汚染された土地には、ひまわりを植えると良い。そんな話が2011年に流れた。画期的に数値が半減することはなかったが、良いと言われたことは、まず実行する。この土地を守る為に、生きる為に行動する。ひまわり畑は枯れていたが、放射線と相性の良い植物を使ってでも、半減の時間が短くなればと願う人の気持ちが伝わる。
竣工し立ての飯舘村の道の駅「までい館」に到着した。福島の方々とは建築士会だけでなく、ネットを介しても友達がいたので、震災前からも事情は知っていた。飯舘が危ない、避難しなくてはと周りが騒いだ時にも、「牛の世話をする。」と言う理由で避難しない友人の祖父がいた。牛乳も出荷できず、肉牛でも売れぬ牛たちを、死ぬまで飼うのだと餌をやり続けた人達がいた。
外を案内する前に、館内のモニタリング数値である。ここは驚く程低い。線量計が普通の生活と切り離せない、ここは日常である。このモニタリングは館内の物ではなく、外部の数値を表示している。
偶然にも低い場所だったのか、それとも汚染土のすき取りで下がったのかは判らないが、充分に安全な数値である。
光って見えない案内板。「までい」は、待ってとか急がないでとかニュアンスのある方言だそうだ。
産直の野菜なども売られているが、重点的に売り出しているのは、花だそうだ。「安すぎね!」と胡蝶蘭のお値段を見て話していたが、残念ながら胡蝶蘭は買った事も貰った事もないので、相場が判らない。
内部
外部
次は飯舘村役場の敷地に入って通過する。数値はこれくらい。
汚染土を運び出すトラックの後ろに着く。
南相馬、原町の魚菜旭亭で昼食となる。ここから福島の別のメンバーが案内として参加する。
10km圏内で頑張っている女性建築士は、被災した人達も皆で椅子(脚立にもなる)を、製作する事にしたのだそうだ。
各県からの差し入れを受け取る。
山を降りて浪江の方へ向かう。これは災害住宅。
元は田んぼだった場所。
海に近くなってきた。ここは海抜も低いが、大きな堤防を造るのでは無く、3段式に距離を置いて堤防を設け、その都度波を溜める構造にしているのだと言う。それは利口なやり方だと思う。ただ、堰や川などの処理も必要だ。
浪江町に着いた。奥に見えるのは庁舎である。
地震で修理された家とそのままの家があった。解体を待つ建物が多いと聞いた。
浪江駅に寄る。常磐線は浪江で通行可能な線と通行止めとに分けられる。
浪江から仙台方面は通行可能。
線路に渡された橋で、それが分けられている。
徐々に開通に向けて頑張っているそうだ。
浪江から南はこれからである。
浪江駅前の「まち なみ まるしぇ」に寄る。コンビニも入っている。住民の帰還はまだまだだが、汚染処理や建築で働く人達の買い物にも使われる。
時間が止まった町から、少しづつ息吹が戻ってきた。
庁舎も全ての階が使われてはいないと言う。職員も郡山などで仕事をする人が多い。
0.561 1.975 2.243
バスの中で、線量計の数値が上がっていくのが判る。双葉町の帰還困難区域を通過する。
3.593 4.109 5.061
数値は上下を繰り返す。
福島第一原子力発電所 クレーンの下
こちらもそうなのだが、工事はしていない。ここは大熊町。常磐自動車道路は走行できるが、停まらないようにしなければならないそうだ。
ここも水田だった場所。草のあとには柳も生えてきた。せっかく開拓して田んぼを造ったのに、原生林に戻るのは早い。
高速を降りて、富岡町に近づいてきた。バイパスと思える道路の脇には、見知った店舗が並んでいるのだが、見事に地震で壊れていた。真新しいケーズデンキがあったが、竣工して開店を待つ時点で震災を受ける。
被爆した町と一括りに出来ない面を見た。福島第一に近くても、あの風向きの位置になかった富岡町は、復興がめざましい。これは復興住宅。
町役場
ただし、帰還困難区域も道を挟んで併行している。
花見で賑わった桜並木。
コンビニや店も戻ってきた。
建設ラッシュ。
富岡駅前に着く。
記念写真 私はカメラマンだった。あれ?他の人にもシャッターを押して貰ったはずなのに、無い!
これも完成した復興住宅。ただ、年金暮らしのお年寄りは家賃が高くて入れないそうだ。ここでも被災者は分類される。
電力会社の催しに使う建物。
延々と続く汚染土。中間貯蔵庫に運ばれるのを待つ。
一括りで被災地と呼ぶが、被爆した地域は3つに分けられる。帰還困難区域、20km圏内、そのほか。
せっかく皆で復興しようと思っても、この3つの分類は国の補助がまるで違う。その為、どうして自分だけがとか、あの人達だけ得してとか、一緒になれない。国の方針が地域の人達を分断する。
案内してくれた建築士会のIさんは、震災後、腹の底から笑った事がないと仰った。汚染された土地は5cmすき取ると、数値がガクンと減る。この要領で学校の校庭にも手を加える。また地下30cmに汚染土を入れると、放射線量は出て来なくなる。どれも実践で培った事柄である。嘆いてばかりはいられない。
高速道路を北に向かい、途中のSAと言うか、新しく出来たセデッテかしまに着く。看板には南相馬鹿島が正式名称なのだが、この名の中にはバカがいると、目が泳いだ。
この辺りからは天気が良くなり、気分も晴れた。
トイレ休憩
これは便利だと、トイレの個室を出てから見つけた。後の祭りとも言う。
相馬は、馬追が有名だ。
お店の方に向かう。
ででん!
桃は美味しそうだけど、すこぶる良い値段。
お土産を買った。バスの中では「ここは福島産の物しか置いてないから、存分に買って福島にお金を落として行って下さい。」と告げられたが、私は福島産のと仙台土産を買う。なんてこった。
ここからは、じきに一般道路に降りて、福島へと西に向かう。
帰りのバスの中では、委員長会議が行われたが、各委員長さんのコメントの中に、「広島・長崎は、戦後70数年経っても記念式典が行われる。福島にはそれがない。」と発言され拍手が湧いたが、福島の被爆は爆発で亡くなった方がいた訳でもなく、福島第一も取り壊されておらず、汚染との戦いがまだ続いている「現在進行形」だと言うことだ。いつかは記念式典が行われれば良いなと願うばかりだ。
福島駅で解散する。新幹線の駅、在来線とはまた別に、福島交通飯坂線の駅が見えた。昭和の香りがした。