
飽海地域史研究会では、余所から講師を頼んで行う一般の通史講座と、酒田市史を読みながらの史料講座があり、後者は各週木曜日の夜に開催されている。
酒田市史は、市政50周年を記念して昭和58年に刊行された。
私の本は、昭和62年発行の改訂版である。
この講座は、時間がないために猛烈なスピードで進められている。
7月14日を皮切りに、28日で3回目なのだが、初日に先生の話に着いていけない自分がいた。
先生の読むページと私の本のページが明らかに違う。
「先生、着いていけません!」と手を挙げると、皆さんが持っている「酒田市史」と、私が持っている「酒田市年表」とは、大きな違いがあることが判った。
判らないのが当たり前である。
「ネットで注文しても良いけど、鶴岡市の〇〇と言う古本屋さんは、在庫もあるし安く手に入るよ。」と教えて頂いた。と言うか、買ってきて頂く。ありがたや。

初日には、お隣の方に見せて頂きながら勉強を進める。
東北地方は縄文文化が花開いた地である。
ただ、そんな中に於いて飽海では、八幡や生石などの山際にしか、遺跡が発見されていない。
それもそうで、縄文の頃の酒田は海の底だったのである。
象潟や遊佐などでは天然ガスや石油が発掘される。それは海の生物の死骸が堆積したものであることに違いない。
天然アスファルトも産出している。(これは接着剤に用いられた)

縄文弥生と続く時代で、飽海の住まいは竪穴式ではなく、掘っ建て柱を用いたそうである。地下水が高いのか、様式が違うそうである。
縄文の遺跡ではゴミ捨て場が、幾層にも渡って年代を特定する重要な遺跡であるが、住宅もその上に更に住宅を建ててと、層になって残っている。
住みやすい所は、変わらないんだなと思う。
縄文の遺跡ではゴミ捨て場が、幾層にも渡って年代を特定する重要な遺跡であるが、住宅もその上に更に住宅を建ててと、層になって残っている。
住みやすい所は、変わらないんだなと思う。
酒田と言うか庄内平野が海の底なら、最上川も日向川も、鶴岡の赤川も現在と同じ位置にあった訳ではない。
飽海で言うなら、日向川も随分と南側に河口があり、古湊はその名の通りに重要な港だったらしい。
古湊から川を上って、酒田市本楯にある城輪柵跡(国府)に近づいていた。
そして面白い事に、八幡を中心に陰陽師が活躍していた信仰と呪術の場所があるのだと言う。ストーンサークルや墓地もあり、ミステリーはふんだんにある。
手蔵田で出土した曲物には、7205枚の古銭が見つかった。埋蔵されたのは14世紀頃ではないかと言われているが、その半数が北宋・髄・唐・五代十国・南宋からの渡来銭である。
2日目には坂上田村麻呂やアテルイが出てきた。地域史はその地域だけでなく、大きな広さと繋がりを持っている。抜群に面白い。