この秋から冬にかけて、沢山の講座が開催されていたが、一つ書き逃すと後が続かない事がわかった。書くのが辛くなるのである。
ネットに自分の資料として残すのは勿論だが、せっかく時間を割いて準備し講師をして頂くのに勿体ないなとも思った。
その中の1講座の資料が紛失した。写真は残っているが、メモも一緒だったから、纏めることが出来ない。
探しても見つからない。私の周りにはブラックホールがあるのだ。
それなら時系列を無視して、書いておこう。
ネットに自分の資料として残すのは勿論だが、せっかく時間を割いて準備し講師をして頂くのに勿体ないなとも思った。
その中の1講座の資料が紛失した。写真は残っているが、メモも一緒だったから、纏めることが出来ない。
探しても見つからない。私の周りにはブラックホールがあるのだ。
それなら時系列を無視して、書いておこう。
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と、今回は12月3日、酒田市亀ヶ崎の青原寺で行われた「志村伊豆守・亀ヶ崎城主」の講義を記してみようと思う。
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青原寺は、志村伊豆守の菩提寺である。彼の甲冑や直筆の書状などの遺物が保存されている。
それを公表して「青原寺志村伊豆守光安文庫」を作ろうと、11月に檀家を中心に協力会が開催された。
そんな詳細も知らずに、伊豆守の話が聞けるらしいと参加して、これは大変な所に来てしまったと慌てる。
それを公表して「青原寺志村伊豆守光安文庫」を作ろうと、11月に檀家を中心に協力会が開催された。
そんな詳細も知らずに、伊豆守の話が聞けるらしいと参加して、これは大変な所に来てしまったと慌てる。
今回はそんな話と青原寺のことを、座禅も一緒に住職の渡部さんが進めてくれた。
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その日は悪天候で、雨の中でFさんは駐車する車の誘導をしてくれていた。
私は受付だったが、25部ほど準備して貰っていた資料が、あっと言う間に無くなった。
追加で10部、さらに10部を青原寺さんからコピーして貰う。
私は受付だったが、25部ほど準備して貰っていた資料が、あっと言う間に無くなった。
追加で10部、さらに10部を青原寺さんからコピーして貰う。
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鈴木さんの発表は、戦国時代以降の庄内での各藩の位置と最上義明との関係だ。
慶長5年(1600年)は関ケ原合戦が行われた年だが、同じく慶長出羽合戦も行われた。
慶長5年(1600年)は関ケ原合戦が行われた年だが、同じく慶長出羽合戦も行われた。
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最上義光が山形藩領に組み込まれ、酒田の町は最上氏の放火によって中心部が焼失し、酒田城(後の亀ヶ崎城)は開城された。
酒田町民の抵抗も厳しかったと言われる。
酒田町民の抵抗も厳しかったと言われる。
最上氏は庄内の酒田に志村伊豆守光安(やすあき)を派遣する。
志村伊豆守光安は、焼失した酒田の町の都市計画を行う。
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伊豆守は慶長17年(1611年)に病死し、酒田市亀ヶ崎の青原寺の菩提寺に埋葬される。
青原寺には、夫婦の墓が残されていると言われているが・・・。
志村光安の死後、跡を継いだ長男の志村光惟が最上騒動に巻き込まれ暗殺される。次男は行方不明、残った長女は母を連れて山形や東根に逃げる。
東根の嫁ぎ先横尾家は、横尾酒造を営んでいた。
東根の嫁ぎ先横尾家は、横尾酒造を営んでいた。
山形に帰った母の話と、青原寺の墓には矛盾が生じている。
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また、遊佐町の永泉寺(ようせんじ)には、最上義明の墓と言われる九重層塔がある。
しかし、同塔が山形県の文化財になった時には、志村伊豆守の供養塔と登録されている。
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その頃、狩川城には北館(楯)利長がいた。
北楯は立谷川の水を引く大堰を作った。
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北館大堰は、平成30年に世界かんがい施設遺産に登録され、現在も庄内平野を潤し、米作りに使用されている。
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志村伊豆守の仕事として、羽黒山の五重塔の修理がある。
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五重塔の内部には、その時の史料が残っている。
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次に小野寺先生の「亀ヶ崎城・酒田町づくりと志村伊豆守の役割」について話された。
志村伊豆守光安の生まれた場所も時も分かっていない。
最上義光の家臣で、長谷堂の戦いでも功績があり、酒田(亀ヶ崎)城を任された。
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長谷堂城の城主だった時代に、菩提寺であった清原寺(山形市長谷堂)から峰岩呑鷲和尚を招き、酒田に移し建立した。
酒田の青原寺は、清原寺の名だと水害が起こるとして、青原寺と変えたようだ。
酒田の青原寺は、清原寺の名だと水害が起こるとして、青原寺と変えたようだ。
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県立酒田東高校は、酒田の亀ヶ崎城跡に建てられた。遺跡としては、土塁しか残っていない。
ただし、校舎建設時に遺跡調査をした所、数々の遺物が発見され、重要な物として保管されている。
一般公開すれば、大した史料になるのだがとは先生の意見である。
ただし、校舎建設時に遺跡調査をした所、数々の遺物が発見され、重要な物として保管されている。
一般公開すれば、大した史料になるのだがとは先生の意見である。
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土塁と一緒に、伐採されなかった樹木は、年代を経て残っている。
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石碑もあり、説明の立て札も立っている。
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亀ヶ崎城の本丸と二の丸跡。
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さて、時は天下統一の豊臣秀吉と上杉景勝の時代に、秀吉は庄内3郡を景勝に与えた。
その直前に、鶴岡の大宝寺城の武藤義勝を、川中島へ移す。
太閤検地の厳しさに庄内では土豪一揆も行われる。朝日山城や北沢などでは、農地が2倍に査定されたと云う。
上杉進駐軍は、酒田城を須田相模、観音寺城を寺尾伝左衛門、遊佐の菅野城を市川対馬、観音寺城の来次氏秀を越後に追いやった。
酒田東禅寺城の甘粕備後守の時に、鷹尾山三千坊を焼き払う。
上杉は直江兼続を庄内支配させたが、酒田は湊で繁盛を見て、湊町商人の年貢を半減させ、商業を奨励した。1590年頃のことである。
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1600年、天下分け目の関が原合戦が行われた。東北でも北の関が原と呼ばれる合戦がある。
天下を取った家康が、秀吉軍だった上杉景勝の上洛を求めたが、そこに返事をしたのが直江兼続で、俗に言う「直江状」である。
天下を取った家康が、秀吉軍だった上杉景勝の上洛を求めたが、そこに返事をしたのが直江兼続で、俗に言う「直江状」である。
家康は激怒し、会津(上杉景勝)を征服せよと、最上義光に命ずる。
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その戦いの場となったのが、長谷堂である。
直江は長谷堂城の志村伊豆守を鉄砲で攻撃、谷地城、寒河江城、白岩城を落とす。
最上義光は伊達政宗に援軍を頼み、直江は撤退する。
こうして上杉氏の庄内支配は終わり、最上氏の統治で志村伊豆守が酒田に入る。
酒田の町並みを整理し、酒田鎮守の為に近江国坂本から日枝神社を勧請した。
1609年より酒田山王祭礼を行うようになった。
1609年より酒田山王祭礼を行うようになった。
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志村伊豆守は1611年に病死し、菩提寺の青原寺に葬られる。
青原寺では、志村伊豆守の甲冑、遺物、直筆の史料が残されている。
青原寺では、志村伊豆守の甲冑、遺物、直筆の史料が残されている。
今回の話で、酒田と上杉氏、最上氏の関係がよくわかった。
志村伊豆守の詳細はこちらの最上義光歴史館
志村伊豆守の詳細はこちらの最上義光歴史館
志村伊豆守と直江兼続は敵対していたのに、今ではやまがた愛の武将隊の一員になっているのが面白い。