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11月3日の飽海地域史研究会「城輪柵の発見から史跡指定へ」と題された講義の模様である。
講師は東根市の石井洗幸氏、小野寺先生の後輩で長らく小学校の教師をされていた。
教え子達の集まる同級会では、算数や国語より歴史を語る先生のイキイキ度が凄かったと言われている。
教え子達の集まる同級会では、算数や国語より歴史を語る先生のイキイキ度が凄かったと言われている。
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庄内には幕府領が3箇所あった。(鶴岡の四百年祭の冊子赤本が詳しい)
古い史料を見ていたら、昭和6年に城輪柵の発掘が始まったと記されている。
7~11世紀、大和朝廷が蝦夷との戦いの為に柵を設けている。
図は、色別になっているが、年代ごとの勢力図である。
7世紀では山形県の南を掠めているだけだが、8世紀では秋田の男鹿半島付近まで伸びている。
9世紀では白神山地まで、このような区割りになったのは、陸の道路を移動するよりも、海を船で渡った方が早くて便利だった。
9世紀では白神山地まで、このような区割りになったのは、陸の道路を移動するよりも、海を船で渡った方が早くて便利だった。
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この発掘に最も貢献したのは、松嶺町生まれの阿部正己氏である。
彼は東北の古代史の草分け的存在で、特に飽海史では有名である。
彼はここで埋もれた大木の発掘をした。
これは国分寺跡ではないかと考え、文部省の史跡調査官の上田三平氏に連絡を取る。
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丁度その頃、上田氏は秋県払田柵の調査にあたっていた。
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阿部正己は昭和6年、上京し文部省の上田三平に会い、彼の調査した資料を渡し、出羽国分寺跡ではないかと告げる。
上田三平は後日秋田より庄内に訪れる。
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阿部正己は出羽国分寺跡として疑わなかったが、上田の考えは違った。
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阿部正己は冊子を作って出羽国府跡と公表する。
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昭和7年に山形県議会での講演が冊子になる。
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埋もれた木材の発掘。
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掘っ建ての跡。
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柵の埋もれた細かい木材から、大きな建物の柱ではないかとされる丸太跡も見つかる。
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均等に並んだ柱発掘跡。
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続々と発掘される。
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庄内では城輪柵以外にも、数箇所柵跡が残っている。
大山でも電車の線路工事の際に、昨跡が発見されている。
国分寺ではないかとされていた八幡の柵は有力だが、国分寺は何度が移転を繰り返している。
大山でも電車の線路工事の際に、昨跡が発見されている。
国分寺ではないかとされていた八幡の柵は有力だが、国分寺は何度が移転を繰り返している。
調査官であった上田氏は、城輪柵は秋田の払田と同様、柵であって国分寺ではないと結論を出した。
学閥の大物学者達も、出羽柵は時期尚早であると意見している。
学閥の大物学者達も、出羽柵は時期尚早であると意見している。
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オバタケでは、柱や瓦も出土している。
瓦の模様は奈良のその時代のものに似ている。
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城輪柵付近の航空写真
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各地に国分と呼ばれる地名があるが、それは必ずしも国分寺跡ではない。
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蝦夷との戦いには、下野国辺りから、東山道を通って鎮兵がやってきていた。
出羽の柵を作っただけでなく、派兵もされていたのである。
出羽の柵を作っただけでなく、派兵もされていたのである。
それを示す木簡が発見されている。
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昭和6年、阿部正己、喜他貞吉、上田三平、本館村の人々の熱意は凄まじく、昭和7年国指定の史跡となる。
まれに見るスピードで進められた。
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