無題・休題-ハバネロ風味-

私の視線で捉えた世の中の出来事を、無駄口、辛口、様々な切り口から書いてみました。

飽海地域史研究会人物講座5 本間光美の日記を読む

2024-01-12 17:14:08 | 歴史

本間光美は本間家の第6代当主で、彼の日記から幕末激動期の本間家と酒田県、明治政府の動向 が判る。




本間家系図は酒田市史5に載っている。
しかしこれをSNSに載せた所、本間家分家本間新四郎の系図が間違っていると指摘される。
過去にも史資料編纂室(?・もしかして酒田市役所)の方にも指摘したが、訂正はされていないと言う。

本間光美は天保7年(1836)に、5代光輝の次男として生まれている。
天保と言えば連想されるのが天保の大飢饉だ。気象異常冷夏と洪水などで、1833年から1839年頃まで続き、特に東北では飢餓で村が消えた。
天保8年、大阪では大塩平八郎の乱が起きる。
庄内藩では備蓄米や本間家の蔵からの放出米で、餓死者は出なかったと言われている。
天保11年には三方領地替で庄内が揺れた。それを阻止した領民の力の記憶は、その後の事件でも役に立つ。
慶応3年、江戸市中取締を命じられた庄内藩は、悪さを繰り返していた薩摩藩邸を焼き討ちする。
戊辰戦争が始まり、奥州列藩同盟が崩れていく中、明治元年に降伏する。

明治元年9月、明治政府は酒田城に軍務官・民政局を置く。
最上川を挟んで川北は羽後となり、秋田県の一部も含めた酒田県となった。

さて、昨年の9月9日に遊佐町で行われた庄内・由利古文書研修交流会で配布された「建白書」なるものが面白い。





上の4枚は解読文だが、小野寺先生の弁によると、誰が何時書いて何処で保存していたのかが解らないのは、史料として不適当とのことだった。

せっかく酒田県が出来たのに、そこにやって来た役人達のあまりの傍若無人ぶりに、領民が政府に役人達を罷免して欲しいと申し出た。
賄賂要求に強請り集り、遊女狂い、酒田市中の飼い犬を殺して食料にしたとも書いてある。(八頁)
東京には領民4人が出向き、直訴する。



明治2年、東京から呼び出しを受けた本間光美は、東京に向かう。
その模様が日記に詳しく書かれている。
政府会計局は、政府不足米126万5310石あり、外国の応接が急務で金を奉献せよと言う。
本間家では江戸市中取締でも大枚がかかったのでと断るが、「あなたはいつも庄内藩のことのみ申し、金も出さない。」と言われる。
光美は「4~5万両なら出せる。」と6月9日に5万両献金を命じられる。

この時、庄内藩を会津若松か岩城平へ転封、本間家も同様と脅される。
10万両払えばとか見込み30万両、ついには50万両を出せと言われる。
光美は大隈重信と面会し、転封は献金で阻止できると聞かされる。

酒田に本間家がなかったら、大変なことになっていたのだなと思う。
過去に田村寛三さんからお聞きした本間家と山形県令の話を思い出した。




コメント
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