無題・休題-ハバネロ風味-

私の視線で捉えた世の中の出来事を、無駄口、辛口、様々な切り口から書いてみました。

松森胤保・ギャラリートーク

2024-01-21 23:03:24 | 歴史


1月20日、酒田市松山文化伝承館で、松森胤保のギャラリートークが開催された。
講師は松森胤保の子孫で、鶴岡市で写真館を営んでいる松森昌安氏である。
通常知られている胤泰のこと以外に、身内ならではのことも話された。


今回の講演のタイトルだが、ここに面白い物が載っている。


写真に映っているのは月山である
。空中に凧のような物が浮かんでいるが、これは松森胤保が考案した飛行機なのだそうだ。
彼は2年間、山形県の県議会議員だった。松山から山形に通うのに、道路を使うのは遠くて大変。
月山をひと跨ぎする飛行機を作ろうと考えた。
彼は日本のレオナルド・ダ・ビンチだった。


松森胤保の41才で最初に写された写真である。

文武両道で戊辰戦争の切っ掛け、江戸の薩摩藩邸を焼き討ちした2年前に撮された物。
後の学者風体の写真とはあまりに違う。凛々しいイケメンなのである。

彼は子供の頃から動植物、石、石鏃(石で出来た矢じりなどの武器)を集めるのが好きで、牧野富太郎よりも先に植物採集し絵に認めていた。
元々鶴岡の金峰山近くの長坂家に長男として生まれ、鶴岡の致道館で教育を受ける。
剣術、槍、鉄砲術にも長けている。
松山城で家老になる。家老の権限は鉄砲を自由に使えること、ほぼ毎日のように鉄砲撃ちにでかけた。
撃った獲物(鳥)は、精密画にして残す。彩色してあり見事な出来である。

戊辰戦争では連戦連勝で、横手・角館など数々の城を落とす。
久保田(秋田城)に迫ったが、城主から帰国の命を受け戻っている。
松山城の城主から松山を守ったとして、松守の名字を授けられるも、恐れ多いと辞退しつつ、後に松守を松森に変え名字とした。 

政治の世界を終えると、自分の好きな分野(多才すぎるのだが)工学から建築、自転車、自動舟、飛行機、織り機(これはアイデアを売ったらしい)天文学、地動説、もう汎ゆることに興味を示し、本に認めてある。



松森胤保の展示室を抜けると、彼に関するクイズ15問があって、満点だと何か貰えるらしい。
外れた場合もカードを選んで貰えるらしい。で、挑戦する。
見事にカードだった。41歳の松森胤保の写真をゲットする。


松山城の門の上に、お月さまが見えた。



何の実だろう。





会場の駐車場から、鳥海山の端っこが見えた。
こんなに綺麗なら、撮さねばと追いかける。




もう少し時間が経つと、夕日を浴びた赤い鳥海山になるのかなと思う。


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飽海地域史研究会 人物編 後藤善治の日記より

2024-01-21 22:20:10 | 歴史

1月19日金曜日の夜、総合文化センターは混んでいた。
普通の教室には入れず、和室での講義で、襖で仕切られた二間続きの和室は、隣も賑やかだった。



この回は飽海の人々と新庄からの3名も加わっていた。
暫く飽海地域史研究会の説明が続く。


1年半の飽海地域史研究会の歴史(?)が説明される。


そうか、こんなに勉強したのかって、私がサボった回もある。


庄内、飽海に住んでいて、地域の著名な人を知らない。
左から、清河八郎、本間郡兵衛、松森胤保。


今回は、農業社会学に貢献した豊原村の「後藤善治」についてだった。
残念ながら、まったくもって彼のことは知らなかった。
農業社会学の観点からすると、全国的に後藤善治は有名なのだそうだ。

善治は明治11年、伊藤巳之助・芳の次男として誕生する。その頃の農家の次男三男は若勢として別の村の農家へ雇用される。
元禄の頃から給米として若勢やめらし(女性)に、払うようになっていた。
農家の長男は通常、農家の田畑を継ぐ。次男三男は外に出る。
しかし、牧曽根村を始めとする庄内は、男子にではなく女子に跡を継がせ婿を取る。
若勢はめらしと一緒になることも多かったが、善治は優秀で後藤丹蔵家の芳江(幼名鉄代)と夫婦になる。


後藤善治は明治26年から晩年の昭和11年まで、事細かに書いた善治日記が、貴重な農業の日誌として全国的に知られるようになった。
日々の暮らしの他、天気もしかり、非常に重要な史料となっている。





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