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春のような穏やかな気候に慣れてしまった私には、3月3日の大荒れにはすっかり参ってしまった。
午前中の清河八郎記念館と観音湯の種田山頭火句碑見学をバックレ、午後の部の会場設営で12時半目指して車を走らせたのだが、雪の塊で凸凹状の道路には横滑りはするし、時間はかかるしで少し苛立つ。
5分遅れで松山城址館(松山能舞台のある施設)に着くも、事前に到着していたのは1名だけだった。
事務の方にイス・テーブルの収納箇所を教えて貰い、会場に並べる。
能舞台のある部屋は、通常の長方形にはならずに、参加人数と椅子を考慮して並べて行った。
能舞台のある部屋は、通常の長方形にはならずに、参加人数と椅子を考慮して並べて行った。
小野寺先生が到着する前に、聴講者の方々が受付を済ます。
午前の部の走行距離を考えるに、無理があったのだろうと思われる。
午前の部の走行距離を考えるに、無理があったのだろうと思われる。
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前半は2022年7月に観音湯の脇に建立された「俳人種田山頭火句碑」に纏わる種田山頭火と酒田について、会長の小野寺先生と酒田観光ガイド協会の豊岡紘子さんよりお話を頂いた。
種田山頭火は奥の細道の松尾芭蕉に続けとばかりに、放浪しながら句を詠んだ。
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田村寛三さんの『酒田ききあるき』によれば「昭和11年7月1日午前10時頃、酒田駅に山頭火が降り立った。
坊主頭白髪・髭交じりの55歳。背は高くロイド眼鏡だが生気はなく、駅を出て左折、かつての東急イン前を通り上日枝神社境内に入った。
30分も休むと天王寺町の方へ歩く。やまぐち屋という酒屋に入り、60歳位の店主にコップ酒を頼んだ。
山頭火は一気に飲み干し、今朝鳴子から来た禅僧で全国行脚をしていると話した。さらに一文無しで酒代のかわりに俳句を2・3障子紙に書いた。
「きみだるる旅もをはりの足を洗う」と。そして死にきれないので放浪の旅を終え永平寺に行こうと思うと述べた。」
やまぐち屋さんの山頭火の書いた句は、酒田大火の折に燃えてしまい、書としては残っていない。
残っていれば、1枚ウン十万円で取引されたろう等と、巷の雀たちはさえずっている。
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酒田観光ガイド協会の豊岡紘子氏に種田山頭火の句碑について伺った。
観音湯の句碑は、「何故せっかく酒田に来たのに、酒田では山頭火の句碑を建てないのか。」と天童市に住む永岡昭氏は建立の為に奔走する。
永岡氏と豊岡氏は、顔見知りでもなかったのに、何故か手伝うことになる。句碑に描く2句の書も豊岡氏の手によるものだそうだ。
今回、本来なら永岡氏からお話を伺う予定だった永岡氏の体調がすぐれない為に代理となった。
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後半は、会場が松山城址なので、松山藩の歴史を学ぶ。
松山には縄文遺跡も多々出ている。山際なので酒田よりも歴史は古い。
松山の總光寺は1384年に建立された。1604年頃に最上義光・志村伊豆守によって最上街道が作られ、最上川の位置とも重なり砂越同様に旅の要所となる。
正保4年(1647)酒井忠勝の遺領14万石から2万国を3男忠恒へ分知し松山藩となる。余目廻館や大江町左沢も松山藩の領地となる。
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寛永8年(1631)に左沢領主直次が死去、寛永9年加藤忠広(加藤清正の庶子)が改易され、左沢領が松山藩のものとなる。
上の書状は左沢と松山藩とのやり取りのもの。
また、左沢では青苧が名産で、米に限らず青苧も最上川舟運の需要な荷物であった。
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松山城の絵地図。
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南面の拡大図だが、堀の内側には城代の御屋敷の他、家老であった松森胤保の居宅もある。
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これは大阪城で、ここには藩主はおらず徳川幕府から派遣された城代が務めていた。
松山藩は延宝6年(1678)から嘉永2年(1849)まで、都合18回に渡り大阪加番(城代の支配を助ける警備普請掃除など)を申し付けられている。
松山藩は延宝6年(1678)から嘉永2年(1849)まで、都合18回に渡り大阪加番(城代の支配を助ける警備普請掃除など)を申し付けられている。
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移動から普請や人件費に至るまで費用は嵩んだが、持ち出し部分は幕府よりの合力米18000俵(6200両値)と差し引きすると黒字だったらしい。
かたや江戸詰めの庄内藩酒井家では、幕府名代を仰せ付けられることもあり、赤字の火の車だったのだが。
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最後に酒田船箪笥の加藤涉氏より「酒田船箪笥を次世代に伝える」と題してお話いただいた。
マスコミを含めての動画は上のアドレスを参考に見てもらいたい。
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加藤木工の加藤歩氏より、北前船に載せた金庫の役目をした酒田船箪笥についてお話を伺った。
河村瑞賢が西廻り航路を進める以前は、酒田から若狭湾、陸路から琵琶湖を通って大阪へ、大阪から再度船に乗り江戸へと1年3ヶ月の時間を要した。
西廻り航路では2ヶ月の輸送期間で済むことになった。
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酒田船箪笥は製作の工程に、指物・金具・漆塗りがある。
この金具を作る職人が酒田では途絶え、製作中の金具は県外からの調達だった。
酒田船箪笥と言っても正真正銘のメイドイン酒田にはならないジレンマを抱えていた。
そんな折、加藤氏の苦労を知った県立酒田光陵高校の3年生達が課題研究にと、加藤氏との共同制作が実現した。
この金具を作る職人が酒田では途絶え、製作中の金具は県外からの調達だった。
酒田船箪笥と言っても正真正銘のメイドイン酒田にはならないジレンマを抱えていた。
そんな折、加藤氏の苦労を知った県立酒田光陵高校の3年生達が課題研究にと、加藤氏との共同制作が実現した。
飾り金具だけではなく、錠前などの難しい部分も作り、完成させた作品を見せて頂いた。
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実に頼もしいではないか。
次世代に期待をし、加藤氏の夢である「酒田を発展させたい」を実現させよう。