無題・休題-ハバネロ風味-

私の視線で捉えた世の中の出来事を、無駄口、辛口、様々な切り口から書いてみました。

飽海地域史研究会 象潟郷土資料館

2024-09-23 16:47:06 | 歴史


秋田県にかほ市にある象潟郷土資料館に着く。
以前鶴岡市の致道博物館とタイアップした「北前船」の催しで行ったことがあったらから、カーナビを使ってほぼ間違いなしに着いた。
先に着いていたメンバーが、外に飾られていた埋れ木のパネルを見ていた。



その実物も飾られていた。話によると、高速道路の日沿道の象潟ICの工事の際に出土した物らしい。


象潟の町が以前は海だったことが解る埋もれ貝の土塊。


館長さんから象潟の歴史を伺った。


2500年前、鳥海山の噴火に拠って、大きな岩を含む土石流が象潟の海に流れ、砂嘴や島々を造った。
その景観は素晴らしく九十九島と呼ばれ、太平洋側の松島と並び称されるようになる。


埋れ木に着いて説明して頂く。
長い間泥土の中に保存されていた樹木は、家具や内装材などの銘木として、江戸時代から掘り起こされ、たいそう高価な金額で取引された。









九十九島と呼ばれているが、その一つ一つに名前が着いており、その数は3x40の120のようだ。


奥の屏風には九十九島が描かれており、本荘藩の江戸屋敷に飾られていた。



今回は象潟を最終目的とした松尾芭蕉の特設展を観ることになった。





左の掛け軸は、画家の森川許六が描いた芭蕉と曽良で、最も本人たちに似ていると言われている。





館長さんの後ろの掛け軸は、漢詩の「飲湖上初晴後雨」で、中国の春秋時代の美女「西施」が、化粧をしたのを松島。
薄化粧をしたのが象潟とした芭蕉が、この地を最北として奥の細道を歩んだ。


芭蕉が歩いた奥の細道。
この距離を見て、芭蕉は隠密であったのだとか言われているが、奥の細道の文は紀行文として、世界に知られている。
同行の曽良の日記と垂らしあわせても、芭蕉は俳句の友人を頼っての旅だったらしい。


右側の掛け軸が芭蕉の直筆。


芭蕉が訪れて後、大地震により象潟は隆起し、島々は地面の上になった。
日本地図を作成した伊能忠敬は、島の状態と隆起した両方を見ているらしい。




3階に上がり、象潟の民俗資料が展示を観る。
秋田の象潟と庄内では、女性が農作業をする場合に、この覆面(はんこたんな)を着けました。虫除け男よけと噂されている。

 

北前船の展示では、現在貸し出しをしており、展示品は少なかった。



郷土資料館。
カーナビでは、酒田よりの狭い道路を曲がりくねって現地に着くが、道路を挟んで前には、体育館が建っている。
その体育館を目的地にすると、国道から大きな道路を通って、いとも簡単に目的地へ着く。
今度はそちらを通ることにしよう。


お昼はガストで日替わりランチ水曜日編をチョイスした。これにドリンクバー付きだ。
ランチはロボットが運んできたがテーブルの上に載せてくれるわけではない。
これをハミながら午後の予定を予習した。



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