無題・休題-ハバネロ風味-

私の視線で捉えた世の中の出来事を、無駄口、辛口、様々な切り口から書いてみました。

茄子の瓶漬け

2010-08-29 21:16:41 | 食べ物
兵六玉でご馳走を戴いた時に、社長の奥様が作ったと言う「茄子の瓶漬け」が美味しかった。兵六玉は付き会いが長い。昔は居酒屋メニューが多かったが、最近は知られざるご当地の家庭料理も、お洒落な一品も顔を出す。新しいメニューには、客の意見も聞き入れる。

で、当の茄子の瓶漬けだが、薄皮丸茄子の浅い漬けだった。「美味しいね。」「どうやって漬けるんだろうね。」隣り合わせの席での、kaさんとの会話である。「作り方、見つけたら教えてね。」「はい、やってみます。」同じ中学の先輩後輩の仲の会話である。この二人は、大人になって、妙な所で一緒になる機会が多い。この日も某会合の受付で並んで、仕事をしていた。

よぉ~し、作って見るぞと(季節の野菜は集めるのが大変。)「「茄子の瓶漬け」をググってみると、山形の漬け物に辿り着く。実は、山形の内陸は本当に漬け物が美味い。そこで、某メーカーは良いことを考えた。美味しい漬け物グランプリみたいな大会をやって、優勝する美味しい漬け物を商品化しだした。いずれはこの簡単に作れるだろう「茄子の瓶漬け」も、そうなる運命なのだろう。

で、作ってみました!



薄皮丸茄子は、今が最盛期なのだそうだ。八百屋で見つけて「よっしゃ~!」」で買ったのだが、急がないと無くなるらしい。それで、肝心の漬け汁のレシピだが。
こなす 1kgに対しての漬け汁は、家庭で大きく違ってるらしい。

煮立てる漬け汁のレシピ
水1.000cc 塩 80g 砂糖  160g みょうばん 6g
水1,000cc 塩 88g 砂糖  88g みょうばん大さじ2
水1,000cc 塩 85g 砂糖  140g みょうばん大さじ1.5
水1,000cc 塩 75 g 砂糖  100g みょうばん 大さじ1弱
ネットで載っているレシピは以上の通り。
後は、加減して貰うしか方法はないと思うのだが、我が家は「甘くしないで!」の念を押されている。
なので、ちょいしょっぱめの甘め薄の配合で作ってみたのですけど。
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熱帯雨林

2010-08-29 15:00:24 | 社会
相変わらず、暑い日が続いている。室内の冷房も必至なのだが、身体に当たっていた冷気が痛みに変わった頃、猛烈な悪寒に襲われた。胃の痛みと鼻水、喉の痛みに続いて、熱でも出たのだろう全身の節々の痛みで身体がガクガクし、立派な夏風邪だと自己診断した。退院したての新人君が、家でウンゲェ~と泣き声をあげている。この子に風邪を移したら大変な事になると、室内でも風下を歩き、なるべく会話もしないようにした。熱で体温が上がると、汗はかくのだが、気温の高さが暑いとは感じない事に気が付いた。人間の身体は、便利に出来ている。

もう一方の腱鞘炎は、待合室の2時間待ちに音を上げて、通院するのを引き延ばしにしていたら、ついに薬もなくなった。何とか月曜日には行かないといけない。痛みは一向になくならないのだが、これも人間の身体の便利なとこで、痛くならないようにかばったり、工夫したりする癖がついた。親指を使うと痛くなる。特に力を入れたりねじる仕草は禁物だ。それでなるべく親指に触れないように、他の指を兼用して動作を行う。すると、その動作がある動物にそっくりなのに気が付いた。それはゴリラだ。手を軽く握った4本指を使って身体を支える様子は、まさにゴリラそのものだ。親指をこんなに器用に使えるのは、人類だけだと何処かで聞いた覚えがある。ゴッホゴッホと咳をしながら、湿気の多い室内を歩き回る私は、熱帯雨林に先祖返りしたような気になった。
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酒田市でも

2010-08-28 10:38:53 | 社会
戸籍に残っているのに行方不明の高齢者の数は、全国でも続々と増えている。そんな事は遠くの街の話だろうと思っていたら、酒田市も凄い数になっていた。

8月27日付けの山形新聞に載っていた記事の抜粋が以下である。

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酒田市によると、本籍が同市にあり、住所など所在が確認されていない100歳以上の高齢者は587人。このうち120歳以上は349人で、最高齢は天保8(1837)年5月生まれの173歳の女性だった。
------------------------------

何という数だろう。これが全国版に載っていないから面白い。
200歳の人が発見されているから、173歳くらいでは若いのだろう。
ちなみに、天保8(1837)年は、大塩平八郎の乱があった時で、板垣退助や徳川慶喜が生まれた年だそうだ。
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江戸時代

2010-08-26 19:16:05 | 社会
本間郡兵衛のお陰で、幕末が身近になり、文政元年がこの辺りかなと見当がつくようになった。さらに身近になったのは、最近の百歳を越える高齢者の戸籍だけが残っていて、本人はどこでどうしているのやら、そんな事件(?)が日本中で巻き起こったからだ。以前は、日本ほど戸籍がしっかりしている国はないとまで言われていたのに、蓋を開けたらトンでもない事になっていた。死亡届を誰かが出さないと、戸籍は抹消されない。戦争を挟んだから行方知れずが多いのだと、言い訳は聞いたが、今日になって186歳の男性が生きてる事になって驚いた。

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山口県防府市は26日、文政7(1824)年生まれで、 存命していれば186歳になる男性の戸籍が残っていたと明らかにした。 市は戸籍削除の手続きを進めるとみられる。1824年は、第11代将軍徳川家斉の時代。 前年に来日したドイツ人医師シーボルトが長崎郊外に鳴滝塾を設立した。 防府市の男性は勝海舟の1歳年下で、西郷隆盛より3歳年上に当たる。産経新聞 2010.8.26 17:50
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もうこうなったら、平安時代の人が生きていても不思議はないぞと思い、戸籍制度が日本でいつ頃出来たのか調べてみた。以前にも大和朝廷の直轄領で戸籍があったらしいが、670年(大化の改新645年)以後、徐々に出来てきたようだ。昔は「家制度」があって、家長は責任を持って家族を把握していた。正式に戸籍制度が出来たのは明治5年(1874)だそうだ。その頃は「家制度」があったから、誰かが死亡届を出しても良さそうなのに、それとも役所のミスなのか。

明治生まれどころか、江戸時代生まれがどんどん現れる現象は、さすがお盆の8月に相応しい話題なのだろう。私の曾祖父も江戸時代生まれ、生きていた頃の話も父から聞いていたので、そんなに昔のこととは感じない。それでも、江戸時代の人が生きているはずはないねと思ってみる。
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ガマの穂・爆発

2010-08-23 12:45:13 | 動物・自然
真ん中のガマの穂の下から1/3の左側が、ほつれて白い綿が見えた。
警戒警報発令。このままでは、大変な事になると、花瓶から新聞紙に移すことにした。



少しのショックでも破裂するだろうと準備をする。



破裂と言っても、一気に爆発するのではなく、糸を解くように、シュルシュルと穂から綿が溢れ出てくるのだ。ちょっと振ってみたら、見る間にほぐれて、新聞紙一杯になった。大変だ。止めなくちゃと思った時には、人間が動く空気に乗って、ふわふわと空中に浮き出した。新聞紙を畳んで爆発を止めようとしたが、この行為自体無謀だった。軽い、ものすごく軽い。
綿は床に流れ出し、何処までも広がっていく。ガマの穂1本で0.5立米以上になると思う。
しまった。外でやるんだった。
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反省会

2010-08-23 12:38:29 | 食べ物
その後、兵六玉で反省会になった。祝賀会での飲み物は缶ビール2本で、おしゃべりしていて、2本目のプルタブをプシュと開けた時、中締めになった。産業会館からビールを握りしめながら歩いて、兵六玉へ入った。「持ち込み、良いですか?」



お洒落な先付けは、すぐにお腹に入り、様々な料理を食べた後に、綺麗なイワシの刺身が出てきて、カメラを持っているのに気が付いた。慌ててシャッターを押す。



自分の冷酒の杯を撮す。美味しい冷酒の名前は・・・残念、忘れた。
左の器は、ソーメン南瓜の酢の物だ。
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酒田港重点港湾選定祝賀会

2010-08-23 09:03:48 | 建築・都市・港
8月22日、酒田産業会館で、「酒田港戦略構築市民決起大会」が開催された。表題の祝賀会はそれを兼ねてである。まずは重点港湾に選ばれた事を祝ったが、それで浮かれている場合ではない事、次々に手を打って行かなければ、数年後に交替する恐れがある事で、気を引き締める為にも、この決起大会になった。今回の重点港湾の為に行動を起こしてくれた様々な団体が一緒になり、せまい産業会館は、益々せまく感じる人の数だった。



県からは、吉村県知事自らが駆けつけて下さった。東北整備局からも、地元の国会議員(全員でない所がミソ)県会議員、近隣の市町村からも沢山の方が参加され、酒田港の為に山形県が一丸となって行動を起こした事が実感となった。民間で一番派手に陳情を行ったり、行動を起こした平田牧場の新田さんは、25日に中国から商社の方々を招いて、酒田港を通して山形県全体の産物が中国の市場に載るようにと、イベントを行う予定だ。そんな大事な会合に、最も来るべき人が顔を出さなかった。それは酒田市長だ。

県全下で行った、霞ヶ関での大臣への陳情の時も、酒田市長だけが欠席してロシアへ行ったことで、これはおかしいと感じていたのだが、今回市長は市内におり、個人的な会合に出ているのだと言う。市長と新田さんの確執は有名だが、今回の決起大会は市民達が集まって企画したものだし、挨拶するべき来賓が集まってくれていると言うのに。「酒田港の事では、酒田市が一番動かない。」と、巷で囁かれているのを知らないのだろうか。酒田市の発展の為に市長が必要なのであって、市長の椅子が個人をおごらせる事があってはならない。「市長は来ないんですね。」と来賓に言われて、何と市民が応えれば良いのか。あきれてモノが言えない。
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行く夏を惜しむ

2010-08-22 12:21:07 | 動物・自然


網戸の内側から撮ったアブラゼミ。ジージーと今日も元気だ。
早く涼しくなってくれ~~!





爆発まで、秒読み段階に入ったガマの穂。
少しづつ、ピリピリとひび割れて、一部膨らんできた。
そして、突然ドッカーンと破裂するのだが。
こうご期待。




生け花用に買ったパイナップル。
南国で育つので、暑さには滅法強く、元気に葉を伸ばしている。
「茎が腐ったら、実を2/3程切り捨てて、土に植えると育つよ。」と、花屋のお兄ちゃんが教えてくれた。
一向に腐る様子がない。
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郷土の先人達

2010-08-22 10:25:34 | 社会
本間郡兵衛さんの記事の時にも、「荘内日報の郷土の先人・先覚」を載せたが、これは1988年頃から新聞に連載されたものである。実は、私の祖父も曾祖父もこの記事に載っていて、実際の新聞のコピーは、後生大事に取っておいてある。インターネットの時代が始まって、これがアーカイブで荘内日報社のホームページに現れた頃、いつになったら私の先祖に辿り着くかなと、心待ちにしていたのだ。曾祖父の方は、少し前に載っていた。

萬谷さんに呼ばれて長谷川先生にお会いしたのも、本間郡兵衛さんの歴史を追って祖父の記事に辿り着いたのも、古くさい言葉だが、巡り合わせかなと思っている。ちょうどその日が祖父の誕生日だったからだ。もう一つお目出度い事に、家族が一人増えた。予定日を通り越して心配していたら、祖父と同じ誕生日に生まれてきた子がいる。この日を待っていたんだろうと思う。もうみんなデレデレと可愛くて仕方がない。

曾祖父も祖父も、田村寛三さんが取材に来て書いてくれた。あれだけ短い文章であっても、取材や資料は多かったと記憶している。曾祖父の写真は、本家には残っていなかった。これも色々と事情がある。曾祖父と祖父とは仲が良かったようだ。親の言いつけで養子になり、漆塗りの職人になった次男坊を、気に掛けていたのだろう。その孫(私の父)を「職人の子は職人になれ。」と、これまた大工にしたのも、曾祖父だ。偉い先祖がいたのだと気が付くのは、大人になってからだった。

酒田に住んでいれば、本間家とは何らかの関わりを持つ人が多いのだろう。祖父も漆塗りでは本間家への出入りの職人だった。それが切っ掛けで本間家の乳母だった祖母と一緒になる。祖母の写真の中に、見知らぬ人達との物がある。本間家の人達だった。本間万紀子さんの先代先々代の方々との写真だ。祖母は40代で亡くなり、伝え聞く話と写真だけになったが、祖父は101歳(数えで)まで生き、大往生を遂げた。
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本間郡兵衛(ぐんべえ)

2010-08-21 16:06:31 | 社会
萬谷の女将さんから電話があった。「貴方に会わせたい人が来ているから。」すぐに、私は飛んで行った。九州からのお客様で経済学博士の長谷川洋史さんだった。萬谷さんの先祖も私の先祖も、共に近江の出身と言う話から、私の出番になったらしい。ひとしきり、山形での近江の縁を話した後、今回の酒田を訪れた目的の「薩州商社」から、酒田の歴史が迸るように溢れ出たのである。長谷川さんは、集めた資料を、酒田の田村寛三さんと読み合わせをする為、数日間酒田に滞在している。田村さんとは、昨年建築士会の全国大会でも、講師をして頂いた歴史家だ。

江戸時代、日本に株式会社と言う概念はなかった。文久元年、福沢諭吉が外遊した後、文久2年に「西航記」の中で株式会社の制度を書いている。郡兵衛は遅れること文久3年、西欧の株式会社そのものではなく、近江商人の商法を取り入れた日本に馴染みやすい方法での株式会社「薩州商社」の構想を立ち上げた。

荘内日報社-郷土の先人・本間郡兵衛 写真有り
多才な才能を持つ郡兵衛は、蘭学者、英語教師でもあり、浮世絵師として本間北曜-Wikipediaの号を持ち、「黒船」等を描いている。現在「黒船」の1枚は、酒田市の本間美術館に所蔵されている。


本間郡兵衛が活躍したのは、幕末の黒船来航で、幕府が開国を攻められていた頃である。郡兵衛は自ら浦賀で、黒船を写生している。海外に興味を持ち、蘭学講師の傍らオランダ人宣教師フルベッキから英語を学んでいる。文久2年、通訳として外遊し、西欧の経済や会社組織を目のあたりにする。このままでは日本が危ないと、西欧に打ち勝つために、巨大な株式会社を作り、産業を興す事が大事だと悟る。その頃、薩摩藩主・島津斉彬の家老・小松帯刀(NHK大河ドラマ篤姫でも有名)が、郡兵衛を英語教師として薩摩に招き入れる。薩摩と言えば、英国の艦隊と直接戦闘を繰り広げた事も有名だ。外国の実力をまざまざと見せつけられ、先んじて社会を変える手段として、この「薩州商社」を後押しした。

「薩州商社」に薩摩藩から資金は入れる。但し、利益は摂らない。商税(しょうぜい・あきないうんじょう)として2割を徴収するが、「薩州商社」の保護目的や、社会への還元へと使う。会社の名前が薩州商社なのは、社章も丸に十字の薩摩藩と同じくして、海賊からの被害を受けないようにする為だ。株は一株5千両、民間から、他の藩から、沢山の個人が集まって一株を持っても良いと、ジョイントストック(バラバラな金を集めて資本にする)で大きな力となる会社構想を、大和の石河確太郎と共に立ち上げた。本拠地を堺(大阪)、薩摩、大和(奈良)、酒田(山形)とし、定款を作り、資金調達に奔走する。

郡兵衛は、自分の故郷でもある酒田へ、本間家に参加を呼びかける為に帰郷する。それが戊辰戦争との時期と重なり、薩摩のスパイと見なされ幽閉され、最期を迎えることとなる。彼の残した「薩州商社発端」や草案は、今でも本間家に原本が残されている。彼の死んだ2ヶ月後、庄内藩は西郷隆盛に屈服する。彼が生きていて「薩州商社」を立ち上げていたら、酒田の町と港は、現在のように寂れていなかったかも知れない。

また、戊辰戦争の後、明治政府は東北を黙殺する。県令は薩摩や長州で占め、負ければ賊軍の扱いを受ける。そんな中にあって、庄内藩だけは別格の扱いを受けた。庄内藩の武士達が、薩摩の江戸屋敷を焼き討ちを行ってでもである。西郷隆盛の見せた温情は、この本間郡兵衛の存在があったのではないのか。また、酒田の言葉の中に、鹿児島弁に似ているものがあるが、古くから交易などの結びつきがあったのだろう。ほんの少し、謎が解けたような気がする。

田村寛三さんは、本間家に詳しい。他にも、本間家の経済学にとても詳しい方がおられた。
庄内情報プラザの初代プラザ長の林さんだ。この方が生きておられたら、喜んで資料を提供してくれただろう。


☆過去記事 南州神社
庄内藩と薩摩藩を繋ぐ西郷隆盛について、表向きの美談のように書かれているが、庄内藩からは本間郡兵衛について、一言も触れられていない。触れられると困る事があるからなのだろう。歴史には、表と裏がある一例だと思う。

☆過去記事田村寛三さんの話
明治以後の本間家当主と山形県令のエピソードが面白い。明治政府は東北を賊軍として扱ったが、本間様は特別扱いだったようだ。
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シックスクール・締めくくり

2010-08-21 09:06:42 | 建築・都市・港
内分泌攪乱物質が環境ホルモンと呼ばれる訳は、プール1杯分の水に目薬の1滴でも、充分に作用を及ぼす点だ。人間が作った様々な化学物質が流れる先は、大気であり、海洋である。海では海洋生物が汚染され、食物連鎖の末に、人間の口に入る。人体の中で最も化学物質を貯めておく場所が髪の毛と言われている。女性からは、出産や授乳で、子供に移行する。高濃度なら化学兵器、微量でも影響を及ぼす物を、人間が作ったのだ。

過去に起きた大きな事件「地下鉄サリン事件」は、記憶にあると思う。あの時のサリンの被害者は、何年経っても完治せず苦しんでいる。目の瞳孔が開いて・・と言う症状も、未だに治らない。眼科のドクターがシックスクールによる過敏症を最初に気づいたのは、子供達にその症状がみられたからだ。子供の仮病などでは決してない。学校に大変な事が起こっていると警鐘を鳴らした。

化学物質過敏症は、このような公の施設、特に一定の人が常時使用している建物で発見した時はニュースに取り上げられる。個人の住宅では、なかなか表沙汰にならない。長い間、子供のアトピーで苦しんでいたら、過敏症だったケースも多い。無垢材に自然塗料を用いた空間に住むのが良い。人間の知恵なんて、やはり自然にはかなわないと知ることになるのだ。


過去記事

高橋 元先生を偲んで
郡山の土壁
珪藻土
エコロジー的生き方
なんだかな~
シックハウス
シックスクール
シックスクール・対処法

おまけ:部屋に炭を置くのも良いよ。
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シックスクール・対処法

2010-08-19 13:32:01 | 建築・都市・港
新しい家に行くと、目がチカチカして呼吸困難になる。住宅でも、20年ほど前から、そんな症状が出始めた。それが顕著に現れたのが、じつは学校だった。新しい学校に行くと気分が悪くなる。頭が痛い、だるい、疲れると言った症状で、始めは先生達は取り合わなかった。きっと勉強が嫌だったり、学校へ来たくなかったから仮病でも使っているのだろうと思ったらしい。日本で最初に気づいたのは、眼科のドクターだった。

化学物質過敏症が社会問題化されたのは、米国のカルフォルニア州やドイツが先だった。米国では州によって、対処に差があったが、やはりエコロジーでも先進国のドイツは、取り組みが早かった。日本では遅れて使用禁止にされた化学物質は数種類しかないが、これらの国では危ないと思われる物質を数百と取り上げた。環境ホルモンと呼ばれた化学物質がそれである。正確には、内分泌攪乱物質と呼ぶ。濃度が高ければ死や人体に直接的な被害を及ぼすが、信じられない位にごく微量であっても、人間のホルモンと非常に似た働きをする為に、結果的に人体を変えてしまう。特に女性ホルモンに似ていると言われ、船底塗料が原因で、日本沿岸の貝が雌化していることは問題になった。実は人間の男性にも要注意だと言われてきた。ただし、これらは単体での危険性が問われているだけで、複合汚染については検証されてはいない。

化学物質過敏症になったら、まずはその物質から逃げなければならない。新しい家から古い民家に戻ると治る(症状が軽くなる。正確には完治はしない。)と事例が多い。引っ越しが出来ない状態なら、まずその物質を家の中から取り去る事が必要だ。

建物の内部の仕上げを無垢材や土塗り壁に張り替えないといけない。
軽症なら、換気を充分に行う。何年経っても化学物質がゼロになることはないが、薄くなって行くのは事実だからだ。
急場の方法として、温度が高くなると化学物質が空気中に放出されるので、室内を閉め切り、ガンガンに暖房をつけて室温を上げる。その後一気に換気すると言う方法で、急激にVOCを下げる事が出来る。これをベークアウトと呼ぶ。
おまけとして、室内に観葉植物を置く。植物には気の毒だが、化学物質を吸って貯めてくれるのだそうだ。

意外な盲点として、家具の存在がある。建物自体には日本の法律の網がかかるが、外国で作られた家具(特に中国やアジアなどの)ホームセンター辺りで買うのには、注意が必要だ。木材やチップの圧縮した材料などは、モロに接着剤が問題になり、仕上げの塗料からもVOCが発散する。

もう一つ、住宅で注意しなければならないのは、寝室と押入。普段人の動きの多いリビングやキッチンは、風も動くが、就寝時には空気がたまる。押入の中も空気は動かない。おしゃれと思って、押入や収納にもクロスを貼るのは、健康被害を自分で招き入れているようなものだ。収納時に寝具に染みついたVOCを、就寝時に吸う事になる。
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シックスクール

2010-08-19 09:08:19 | 建築・都市・港
議員会館のシックハウスで、いま時になって迄、こんな問題が出るのかと、半ば呆れていたが、岩手県の奥州市のシックスクールは、もっと深刻のようだ。先日、河北新報の社説にこのシックスクールの問題が出ていた。法整備されて随分と経ち、建築業界では常識になっているのにと、読み流していたのだが、今日の記事では子供達への症状の出方が重症化しているのが見て取れた。この化学物質過敏症には個人差があるが、重症化すると日常の生活にも支障をきたす。車の排気ガス、化粧品、殺虫剤スプレーには勿論のこと、人によっては天然素材にさえ拒否反応が見られることもある。

奥州市の市役所の担当者、設計者に知識がなかったのか、当然補償問題も出てくるだろう。子供達の将来にも不安が残る。酒田の隣の鶴岡市では、積極的に校内へ木材使用を行っている。保育園などの児童福祉施設では内装制限があって、木材が使えないが、学校は文科省の縦割り行政の中、クロスなど使わなくても済むのに、どうした訳だろう。

以下、河北新報のニュースより-------------------------
★シックスクールの奥州・胆沢一小 体育館で分散授業

体育館を仕切って始まった奥州市胆沢一小の2学期の授業=18日
 校舎の改修工事が原因で児童19人がシックスクール症候群と診断された奥州市胆沢一小(児童418人)で18日、2学期が始まった。児童はこれまでの校舎ではなく、体育館や近隣の中学校、公民館など5カ所に分かれての授業を余儀なくされた。
 始業式は同小に隣接する小山公民館で行われ、渡辺唱光校長が「空気をきれいにする作業をしているため校舎は使えません。戸惑うところもあると思いますが、学習と生活に励んでください」と説明した。
 全14クラスは同小から半径約400メートル以内にある市施設に分散して授業を受けた。最も離れているのは渡辺記念館で、歩いて5分かかる。同小の体育館は高さ約2メートルの木製パネルで六つに仕切られ、3、5、6年生の6クラスが使用。大型の扇風機も置かれた。
 市教委によると、分散授業は、改修工事を終えた校舎の総揮発性有機化合物量(TVOC)が国の基準値(1立方メートル当たり400マイクログラム)の半分以下になるまで続けられる。
 市の「シックスクール対策会議」は発症者の治療費や通院の交通費など全額を市が負担する方針を決定。重症化した児童が自宅近くの農薬散布にも反応し、生活できなくなっているという苦情も報告され、市営住宅の提供も検討している。

河北新報の記事
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腱鞘炎

2010-08-17 18:07:36 | 健康・介護
私の利き腕は右手で、力仕事も筆記も、食事の時の箸捌きも、何でも頼っている。それに引き替え左手は、大した事もしない「箱入り娘」のような扱いしてたのに、急に手首が痛くなった。ぶつけたとか、ひねったとか、まったく記憶がない。朝起きたら、痛くなっていたのだ。特に親指に力を入れたり、動かしたりすると痛い。ちょっと腫れて熱をもってきたので、湿布をしたら、汗疹が出来てブツブツになった。見た目はともかく、この痛みは何だろうとネットで調べると、腱鞘炎の文字に行き当たった。

盆休みも明けて、何かと騒がしくなったのに、S氏が「医者に行くべきだ。」と忠告したので、しぶしぶと出かけることにした。待合室での待ち時間は2時間を過ぎ、ウンザリした頃に番号を呼ばれた。レントゲンを撮るらしい。私のブツブツの着いた腫れた手首を見て、ドクターは「太りすぎだ。」とは言わなかった。「腱鞘炎ですね。親指を伸ばす時に痛いでしょ。」と、「曲げる時に痛くなるのが、親指の付け根なんですよ。」と診察してくれた。ついでにレントゲン写真を見ながら「小指の方の手首は痛くありませんか、こちらの骨が普通の人より長いから、疲れるはずなんだがな。」と、おまけ発言をしてくれた。

「治療は二通りあります。飲み薬と湿布か塗り薬。早く治したければ注射もあります。ただし凄く痛いですよ。」と驚かされたので、飲み薬の方をお願いしてきた。私は本当はビビリだったのだ。湿布は私の父が趣味で山ほど集めているので、塗り薬をお願いした。

そんな訳で、「スペースキーが押せない。」なとど、ほざきながらブログを更新している。
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李 参平

2010-08-16 17:16:43 | 音楽・芸術・文学
酒田に萬谷さんと言うお店がある。陶磁器の商いを古くから営んでおり、現在もお茶から贈答品、家具の小物と幅広く扱っている。この店の女将さんは、酒田の商家の女将さんを絵で描いたような方だ。酒田は商人の町なので、商家の女将さんはとても重要な位置にいる。旅館の女将さんと似ている所があると思う。私の曾祖父は職人だったが、自分の子供達の教育で、こんな事を言ったそうだ。「娘は嫁にやるから高等教育を受けさせる。一家の女将として、店の者の教育も、自分の子供の教育もしなければならないからだ。息子は勉強をせんでも、一生懸命働いて家族を養えればそれで良い。」そんな訳で、酒田には高等女学校が早くから出来て、女子の入る学校の数が圧倒的に多かった。学問を本気でしたければ、致道館のある鶴岡へ行けと言われていたのだ。

萬谷の女将さんは、人情味があり、常に笑顔を絶やさず、何にでも興味を持ち、とてつもなく博学だった。それをひけらかすような性格ではない。庄内や酒田の歴史の話しになると、聞いておきたい宝物がザクザクと出てきた。公言出来るものもあれば、ここだけの話と、いわく付きのものもあった。これで謎が解けた、納得できると、裏の歴史も教えて頂いた。本当の歴史は、この裏が大事なのだ。

勿論、瀬戸物や焼き物にも詳しかった。良い品物も見せて頂いた。日本の皇族から朝鮮王朝まで話が進むと、「日本の焼き物の祖は、朝鮮の李参平と言う人だよ。調べると面白い事が判るよ」と教えて頂いた。耳で聞いても覚えられなかったのでメモしてきた紙が、片付けをしていたら今日になって出てきたので、忘れない内にと大急ぎで書いている。

豊臣秀吉の朝鮮出兵のおり、有田の鍋島直茂が朝鮮から陶工を連れてきた。その中に李参平がいた。彼は朝鮮へは戻らず、磁器生産に適した白磁石を求めて鍋島領を探し、ついに有田焼の初代金ヶ江三兵衛として、日本の陶磁器の祖と言われる迄に精進を積んだ。その子孫は今も健在で、十四代金ヶ江三兵衛として活躍をしている。佐賀県に行くなら、九州陶磁文化館が面白いと、メモ書きに残されている。私は佐賀県には、まだ行ったことがない。どうやら今年の秋に、行かねばならない大事な用事が出来てしまったらしい。(←他人事)
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