2014年は、ゴジラ映画総選挙があった。大晦日はそれの発表とベスト10を一日がかりで放映していたようだ。
第10位『ゴジラVSメカゴジラ』
第9位『三大怪獣 地球最大の決戦』
第8位『ゴジラ モスラ キングギドラ 大怪獣総攻撃』
第7位『キングコング対ゴジラ<高画質版>』
第6位『ゴジラVSモスラ』
第5位『ゴジラVSキングギドラ』
第4位『モスラ対ゴジラ』
第3位『ゴジラVSデストロイア』
第2位『ゴジラ(1954年)』
第1位『ゴジラVSビオランテ』
どうして1位がゴジラ対ビオランテなんだろうと、まぁ選ぶ人の好き好きなのだろうが、2位に初期の「ゴジラ」が入った事は嬉しい。
楽しいゴジラ映画には突っ込み処が満載だ。この1954年のゴジラ映画でも、ゴジラの地響きの効いた歩く音と映像が合っていなかったのも、何だかなと思った。「ゴジラ対モスラ」では、双子の幼虫が生まれ出るのをモスラが守っている様子が撮されている。これはこれは・・・親よりも卵が大きくて、どうやって生まれたんだろうと、考えずにはおられない。
SOSこどもの村に関しては、12月19日付で建設通信新聞社が1面を使って特集を組んでくれたので、記録として載せたいと思う。新聞紙はきっとどこかへ紛れ込むし、デジタルで残してあればいつでも見られる。(ただ、もう少し綺麗に撮せなかったのか←自分)
ほらね、あまり良く読めないでしょ。
JIA東北支部が大きく関わった。
家族の家E棟
家族の家A.B棟
センターハウス棟
SOSこどもの村の始まり
この取り組みはヨーロッパが先駆けだが、施設はやはり後進国に多い。日本は福岡が先で、東北が2番目の設立である。施設が出来ると言うことは、国がしっかりとしていないと見るべきなのだろうか。ただし、がんじがらめの国の方針に縛られること無く、自由に子育てが出来ることも良い方法の一つと思う。
字が細かくて読めないね、と言いながら・・・。
国連やユニセフも支援団体に一口乗ってはいるようだが、直接にここへ寄付を送れば途中で○○されることなく、100%使って貰えるのは嬉しい。
河北新報の東北ニュース、青森版から拾ったもの。
確かに、ムキタケは黄色と緑色の物があるが、小さい出始めが緑で大きくなると黄色になるとばかり思っていた。味もそう変わらない。すると、色の違うナラタケ(モダシ)も、もしかすると別の種類と言う可能性も出てくる。茸採りに行かなくなって久しいが、茸の種類は本当に奥が深いと思う。
弘前大農学生命科学部環境微生物学研究室(殿内暁夫准教授)の研究で、これらはまったく別の茸である事が分かったそうである。
以下抜粋--------------------------------
黄と緑の色違いムキタケ、実は別種・弘前大
つるりとした食感が人気のキノコのムキタケには、黄色と緑色の2種類あるが、実は色が違うだけではなく別種だったことが、弘前大農学生命科学部環境微生物学研究室(殿内暁夫准教授)の研究で分かった。研究室は学会誌で名前を別に付けることを提案した。
2種は形状も味もほとんど変わらないため、どちらも「ムキタケ」と呼ばれてきた。2011年に殿内准教授が所属する「白神キノコの会」の会員から、異なる種ではないかとの指摘があり、同研究室で調べていた。
11~13年にかけて、青森県西目屋村の弘前大白神自然観察園などで2種のキノコを採取。遺伝子配列などを解析したところ一致せず、別種と判明した。緑色タイプには、かさの下のゼラチン部分が厚いといった特徴もあるという。
研究室は、学会誌「日本菌学会会報」の11月号に研究結果を発表。名称を整理するため、黄色タイプを「ムキタケ」、緑色タイプを「オソムキタケ」とすることを提案した。他の研究者から異論は出ておらず、採用される見通し。
殿内准教授は「今後も他のキノコの分析を進め、種の違いを整理していく。キノコの住所録のようなものを作っていきたい」と話している。
21日、少し早いクリスマス会を、こがね町にある洋風居酒屋(創作イタリアン)ビミナーレで行った。建築士会酒田支部の女性達8名が吹雪の中集まった。
昨年もここで行ったが、アルコールの飲み放題は(嬉しいけど)さておいて、料理の美味さには定評がある。
カナッペは左から2番目のアボガドと生ハム(クリームはサワークリームかも知れない)が抜群だった。
手前から鴨肉。手作り燻製のチーズ、鶏肉、牡蛎も美味しかった。火の付いている容器は、アンチョビソースを温めた物で、野菜をくぐらせて食べる。小さな容器4つはマリネだった。
手を着けててゴメン。ツブ貝のエスカルゴ風。
これも手作りのソーセージ。ステーキと焼いた蕪も美味しい。
エビとパイ。後ろの焼いた芋は、里芋だった。
チーズの盛り合わせ。癖のあるものから無い物まで。もうピントがブレブレである。
UIA(国際建築家連合)のゴールデンキューブ賞(子どもを対象とした建築や都市環境の教育活動)の最優秀賞に、「子どもたちが応援する歴史的建造物の震災復興~地域・小学校等との協働プロジェクト~」(建築と子供たちネットワーク仙台)が選ばれた。
発表する細田さんと渋谷さん
彼女たちの活動は25年前から始まった。初期の頃、私もプログラムに参加させて頂いた事がある。長い間、よく続けて来られたと感心し、最優秀賞を獲得したのも頷ける。本当におめでとう!
今年のUIA大会は、南アフリカのダーパンで開催された。お二人は家を出てから三十数時間かけて会場にたどり着いたそうである。長い・・・。
取り組みは2つ。1つは東日本大震災で破壊された登り窯の修復をこども達と行ったこと。もう一つは同じく東日本大震災で壊れた旧丸木商店の土蔵の修復に、こども達がデザインした紋の格子を飾ったこと。
その紋が素晴らしい。
アフリカらしいトロフィー。
勿論、大会でのスピーチは英語だったそうで、二重の意味で偉いなと思う。
こどもの村東北が、そんなに重要な意味を持つ建物だとは知らずに、こどもの城(遊びと教育)の延長くらいに考えていた私は、開村式で始めて知る事になる。
仙台は雪だった。バスを乗り継いで茂庭台に着いた私は、公民館で行われたセレモニーには間に合わず、直接こどもの村東北の建物の前での除幕式から参加する。皆で除幕式の綱を引っ張るのだが、幕に雪が載っていて、引っ張っても幕が上がらなかった。笑いと響めきの明るい除幕式になった。
入り口の前にはテントが張られて、全体の写真が撮れなかった。一番綺麗な所は針生先生の写真を載せさせて頂いた。
ここは事務所や家族室から広場が眺められる。
その広場には住宅が3棟建っていた。ここは里親と一緒に暮らす住宅である。
まだ敷地は残っており、予算が付けば別の住宅を建てるそうだ。
エントランス。右に講堂がある。
講堂の中
中央に3.6mのホール(廊下)があり、そこから様々な部屋に入る。また開口部を開けることによって、大きな部屋として使う事もできる。
ホールからエントランスを見た様子。
講堂でのセレモニーが始まった。来賓の挨拶はオーストリア政府の全権大使だった。「SOSこどもの村」は1949年にオーストリアのイムストに、当時医学生のヘルマン・グマイナーによって設立された。
ロバート・キャンベル氏
この女性は、イケアの社長。家具など多大な寄付をされた。顔ぶれがあまりにナニなので、同じ場所にいることにびびってしまう。
講堂の外壁
村長さんとスタッフさんの住まい。
外壁は木の板。内側はカンナ仕上げだが、外側は荒削りのままに塗装されている。
可愛い犬のオブジェと思ったら。
れっきとした美術品で、価格が3000万円だそうだ。こども達はきっと触りたがるだろう。
道路を挟んで向こうが公園と、環境は良い。
この山が太白山だそうだ。
仙台の針生先生から「こどもの村の開村式に来るかい?」と、お電話を頂いた。JIA東北支部から案内が来ていたので、同じ催しと思い、「はい、行きます!」と返事をした。いつものように建築のグループで行くつもりだったが、師走では無理になった。しかも前日までの爆弾低気圧に恐れをなし、一人だけのバス移動となった。、私の車のタイヤがボロで、非常に心配だったからである。
写真は針生建築研究所提供
こどもの村東北は、仙台市の茂庭台にある。右側が講堂。中央が村の施設部分、左側が村長やスタッフの住まいとなる。
写真は針生建築研究所提供
こどもの村とは、東日本大震災で両親を亡くした子供達、また家庭の事情で両親や家族と一緒に暮らせない子供達の為の、里親と住んだり専門家による支援を目的にして建てられた。本来なら行政が主導権を取って進めていくべき事なのだが、これはNPO法人が主体で建物や設備など、活動に賛同した民間の寄付でまかなわれている。設計にはJIAが深く関わっていた。
朝、事務所の何処からかピッピと言う音が聞こえてくる。何かの警告音か電池切れの時の音のようなので、多分電機機器か機械だろうと音のする方へ行っても、今度は背中の方から聞こえる。台所の方かなと冷蔵庫の近くに行ってみると事務所の中から聞こえてくる。
ピッピの音がグルグルと事務所の中を回っている。「ネズミに発信器をつけたのか?」と言われたが、あのネズミは素のままで逃亡中だ。それに動き回れば足音が聞こえるはずだ。ついにダウンジャケットが掛けてある方から聞こえた。ポケットに携帯でも入っているのかと探すがそれでもない。ピッピは連続してではなく10秒ほどして鳴る。押し入れの戸の隙間に耳を当てたら、より強い音が聞こえてきた。それなら押し入れの探索だ。そして犯人を見つけた。
電池式の火災警報器。これが消防法の改正で、住宅の寝室や階段に取り付ける義務が生じた。何年かの緩和の期間が過ぎて、どの家庭でも設置は終わっていると思う。これは法律が出来た当初、電気工事屋さんから見本で貰った物だ。すると何年も押し入れに放置したままになっていたのか。乾電池式で単3が4本。随分と長い間電池が保ったものだと感心する。これは別の場所で性能を発揮して貰おう。
音がクルクル回ったのは、外の強風のせいだろうと思う。昨夜の風は凄かった。バリバリと言う音もした。我が家の風呂場の目隠しが飛んだらしい。
山形県の展望資産として、大山公園の尾浦八景が申請を出している。ここはラムサール条約で有名な下池である。白鳥たちは田んぼに食事に出かけてしまい、3羽しかいなかった。
大山公園には、ビューポイントが沢山あるのだが、今まで斜面の雑木などの樹木が生い茂り、殆ど下界は見えなかった。数年掛けて松と桜を残し、雑木を伐採、視点を幾つか確保したのである。この日は悪い天気ではなかったのだが、右手の鳥海山は裾野しか見えなかった。
もう少し東を見てみよう。下に見えるのは鶴岡市大山の町並み。
月山の頂上ももまた見えなかった。
右手の山は金峰山である。
上池が見える。
元々、大山公園は尾浦城跡だった。城は古くに無くし、雑木で覆われた山だったのを、明治の頃に一人の個人が整備をした。まるで酒田の本間家のようなその人は、清酒大山で有名な造り酒屋の加藤嘉八郎氏である。加藤清正の末裔と言われている人だ。公園を整備した資金は、酒を売ったのではなく、酒粕代だけでまかなわれた程である。それだけ大きな酒蔵なのだ。
彼は東京から彫刻家が招き、生前にこの銅像を造ったそうで、正装して客を招いている様子なのだそうだ。
この銅像のある辺りが、一番広い。広場にベンチなど設置してあるが、雑木が多くて視界が効かなかったのを、高さ50cmに揃えて広くした。
ここには、古峰神社と三吉神社が在る。これは古峰神社の方である。
神社としては面白い造りになっていた。
太鼓橋の向こうにあるのが三吉神社である。
三吉神社の鳥居と参道。緩い石段になっており、散歩するには絶好の場所である。
この鳥居のある辺りからは、金峰山がはっきりと見えた。そこここに東屋が建っている。
こちらは下池と高舘山が見える。看板の奥の方に、テレビ塔が何本も立っている高舘山が見える。
この看板は、建ててから40年は経っているだろうと言っていたが、なるほど丸太の枠は、特に下がボロボロである。よく保ったモノだと感心する。
この公園は、2つの神社と、裾野の方に沢山の個人の方々の土地があり、伐採計画は色々と大変なのだそうだ。特に国有林が混じっている為に、そこには手を加えられないとのこと。尾浦城跡の碑が見える。
その上の高台に着く。右の杉林はまだ伐採していない様子。杉は製材に掛けるほどの大きさでは無く、間伐をしていない為に、ますます細く入り乱れている。ここの斜面は地権者が多いが、伐採して欲しいとの要望が多いそうだ。
人間達が縄張りに入ったのを怒っているヤマガラ。綺麗な色をしていた。なかなか逃げない。彼は小さな身体で、人間を追い払おうとしているようだ。
このベンチの向こうが伐採されていない斜面。今までの公園がこのような状態だった。右側が国有林で、立ち入り禁止の柵があった。
庄内浜から大山公園にかけて、雪の中を歩いたので、私の冬用ボロ靴の中の靴下はグショグショになった。明日は長靴だな。
12月6日、航空自衛隊が、エボラ出血熱が流行する西アフリカへ、緊急援助物資(個人防護服2万着)を輸送する為に輸送機を派遣した。12月11日、無事に空輸隊が帰還したそうだ。私はtwitterで、この事を知ったが、ニュースでは流れていただろうか。自衛隊を暴力装置と呼ぶ政党もあるようだが、こんな活動もそう呼ぶのだろうか。