シルバーウィークに、飛島丸発着所に電話をした。日帰りが出来るか尋ねたら、行きは良いけど帰りは満席と言われ断念する。
そろそろ良いだろうと日曜日に決行する。乗船のチケットを買うのに、住所氏名を記入する。アクシデントがあった時に機能するのだろう。アクシデントはいらないのだが。
勝浦港に無事に到着する。
行きはベタ波だった。潮の境目がくっきりと判る。飛島から鳥海山を撮したいと願ったが、雲と霞が出て願いは叶わなかった。
とびしま丸に載るのに、いつもと昇降口が違うなと思っていたら、まったく別の船だった。とびしま丸は27日まで点検中で、代わりの北海道羽幌からの「さんらいなぁ2号」がカバーしてくれていた。どうりで、とびしま丸が袖浦埠頭に繋がれていた訳だ。
島の観光では、貸し自転車があるが、私は徒歩で移動することにする。地図はマリンプラザでゲットし、まずは遠賀美神社に挨拶する。
勝浦港からも見えるが、ここにはタブの原生林がある。家と家の小道を抜けて、足場パイプで造った手摺のある階段や上り坂を歩いて、まずは賽の河原へ向かう。
島の中央を縦断する舗装道路に辿り着くと、畑作業をしていた女性が道を教えてくれた。「賽の河原へ行く道はこれ位狭いよ。」と広げた手は30cmほどだった。なんの2mは超すだろう道幅の小道や階段を降りていったのだが、たしかに浜へ降りる時にはそれくらいの道になっていた。
気持ちの良い、島の南側である。御積島(おしゃくじま)が見える。
ここの小石はエメラルドグリーンをしていて、とても美しい。ただ、綺麗だからと小石を持ち去ると災いが降りかかると言う伝説が今も続いている。
すぐ近くに明神の社があった。この石垣も綺麗だ。波を考慮してだろう、鳥居からお社までは真っ直ぐの石垣ではなく、かっきりと折れ曲がっていた。
鳥居の上にも、石を積み重ねてある。賽の河原は、幼くして亡くなった子供達が石積みをしている所なのである。
良い花の香りがした。飛島は花の宝庫でもあるのだが、あまり花には出会わなかった。植種は特別大きなタブを除くと、酒田とあまり変わりが無い。これは蔓性のグミのようだ。
クサギもボロボロ。
アザミは一組。
地図に悪路とか階段と載っているのは、観光用自転車を考慮してと後に判る。中央の舗装道路以外は山道になっており、ぬかるみの酷い箇所も確かにあった。
地図に載っている道なのに、途中で消えてしまった物もある。この電波塔の付近から勝浦港へ抜ける道は、何度探しても見つからなかった。グルグルと同じ所をまわる。随分と無駄な時間を費やす。これでは駄目だと諦めて、いったん舗装道路まで戻る。
舗装道路を歩いて、畑の番をしている「島のきょん」と出会う。
そこから「本間さんち」へ降りる道路を通り、階段を降りる。
多分「船見沢第2ダム」と思われる横を通る。
その道は、津波の避難路に当たっている。
ここは、港の道路から1本内側に入った道だ。
季節外れの紫陽花と出会う。よそんちの横を抜け、海岸通りに辿り着く。
飛島の防波堤は幾重にも重なって、迷路のようだ。
高波の防波堤とゲートである。高さは低い。
島でラーメン屋さんは2軒。その内の1軒の西村食堂でラーメンを食べる。色は濃いが、美味しいラーメンだった。
西村食堂のおばさんに、とびしま丸1往復での日帰り島巡りはきつくて、全部は見られないこと。野鳥を観察するにはゴールデンウィーク、花を撮影するには6月と教えられた。釣り以外、今は一番何もない時期だそうだ。今度はもう少し学習してからにしよう。
しまかへに移動する。ここは東北公益大学の学生や若者達の運営だ。
メニュー。
魚醤とアイスなんて、どんだら組み合わせなんだよ。と、思ったが、これが美味い。
そして島を離れる。
飛島は本島と御積島だけかと思っていたら、それはもう沢山の小さな島や岩礁があった。これは釣り好きには堪らないだろうと思う。
波の軌跡に向かってやって来る船がいた。帰りの海は少し三角波が出ていた。トビウオが飛ぶのが1回。魚の群れが円を描いているのが1回。ウミネコの群れが自然の魚群探知機になっているのに1回遭遇する。
島の中を走るように歩き回ったせいで、帰りの船の中では轟沈する。目が覚めたのは酒田港内に入ってからだった。
映画『ヴィヴィアン・マイヤーを探して』予告編
アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞にノミネートされた「ヴィヴィアン・マイヤーを探して」が10月から公開される。非常に興味深い作品だと思う。是非観てみたい。
----あらすじ:或る男性がオークションでネガフィルムがいっぱい入った段ボールを380ドルで落札した。作品の主はヴィヴィアン・マイヤーで、無名の女性写真家だった。彼はネットでその作品を紹介すると、そのすばらしさに大反響が起こる。彼はヴィヴィアン・マイヤーを探す。なかなか見つからずにいたが、やっと見つけたその名は新聞の死亡記事だった。そして、彼女の不思議な人生が浮かんでくる。-----
でもね、ほらね、やっぱり。上映される劇場は、東北では宮城県だけのようだ。
無名の写真家ヴィヴィアン・マイヤーの作品はこちらから
春、植木鉢の周辺に、小さなカマキリを見つけた。うまく育ってくれよと見守ってはいた。カマキリや蜂は、自然の中の警察官のようで、害虫を退治してくれる。害虫にもそれぞれ事情はあるのだろうが、人間の立場で葉っぱや花を食い荒らすのは、やっぱり害虫なのである。
秋になって、あのチビ助のカマキリは、かなり大きな身体に成長していた。立派なメスである。人間が触れてもどうってことないが、近くに昆虫が寄った時の頭のかしげ具合は、やっぱりさすがだなと思う。こちらに顔を向けているのは、手前の花に茶色の蝶々が止まっているからだ。花に引き寄せられる虫を捕るには、やはり花のある辺りでの待ち伏せ作戦が功を奏するだろう。
その雌よりも一回り小さな雄がやってきた。この男女の距離はまだ遠い。事の顛末を知る人間には、この出会いが切ない。まだ産卵するには早いんじゃないのと声を掛けたいのだが。
ちなみに、止まっているのは青紫蘇の葉で、後ろに見える赤いのは2mを超える蕎麦の茎である。荒れ地にでも育つとされる蕎麦だが、栄養豊富な場所で育つと大木になる実験結果である。
水汲みの帰りに、杉沢方面に回る。ゆるやかな棚田(?)は、実りの秋を迎え稲刈りが始まっている。空には薄っすらぼんやりの月と、飛行機雲が見える。
今年の米はどうだろうか。
これも鳥海山。見る角度によって、山の表情が変わる。田んぼには、オリンピックのエンブレム・・もとい、黒い鳥よけが風で揺れていた。
遊佐中の前の赤い蕎麦は、どうなっただろうかと寄ってみた。見事に1本も生えておらず、畑は雑草で覆われていた。何故植えなかったんだろう。赤い蕎麦は珍しいだけで、美味しくなかったのだろうかと、少し離れた田んぼの中の蕎麦畑を眺めながら考えた。蕎麦を植えるのは比較的簡単な筈。一粒もこぼれ種がないのも不思議だと思った。
道端に白い小さな花が咲いていた。シロツメクサではない。これは何と言う花だろうか。(多分、ヒメイワダレソウだと思う。)
久しぶりに新井田川沿いの旧商業高校の脇を通ったら、道路よりもグランド寄りに新しい道路が完成していた。山居橋の辺りはいつも工事をしている記憶があったので、その関係かと思ったら、まったく別の道路だった。その道路が使われるようになったら、新井田川までの土地はどうするのだろう。河川敷に加えて公園にするか、山居倉庫界隈の駐車場にすれば色々と便利なのだろうと思う。酒田市の都市計画には詳しくないので、後でしらべてみよう。この開通は何時になるのかな。
秋だねと思う。
新庄酒田道路の酒田市東町-酒田市新堀(延長5.9km)の開通は平成27年11月14日(土)だが、
新庄酒田道路の新庄市本合海-新庄市升形(延長2.4km)の開通は平成27年11月8日(日)だ。
9月17日に正式発表になった。どちらも楽しみだね。
酒田みちみらい女性の会で、高規格道路新庄酒田道路の酒田寄り「余目酒田道路」の見学に行く。供用開始を前に舗装が終わり、これから防雪柵や照明、カメラなどの設備工事が始まる。
供用されるのは、新堀ICから、酒田東町ICまでの区間である。この酒田中央JCTがくせ者で、酒田に入るのだからとJCTを降りると、有料の日沿道に突っ込む仕掛けになっている。最も注意しなければならない場所である。
ともかく、酒田市内に入るには、どこまでも真っ直ぐに進めば良い。
国交省の車に同乗し、新堀ICから庄内中央大橋を渡る。橋は道路よりも先に完成している。ここには防風柵はない。
橋の上。抜群の背景である。
次に大宮ICに移動する。
現場の責任者から詳細を伺う。思えばいつも道路の現場見学は雨にたたられていた。それを挽回するような秋晴れである。2社の新聞社が同行する。
青い橋が庄内中央大橋。
設備の工事が行われている。
路肩に面白い物を見つける。
瓦を砕いた物である。草が生えづらいと言う業者からの意見で、実験的に敷き詰めている。酒田が始めてらしい。建築廃材のリサイクルにもなるが、草が生えない証明が出来ると、様々な所に用いられると思う。
これは酒田方面。ラインも中央分離帯もまだない。
JCTの工事
JCT南側
横を走るのは、旧来の酒田松山道路。
JCT北側。酒田松山道路は高速の下をくぐる。
様々な疑問をぶっつけてみる。この後国交省酒田河川事務所に戻り、さらに詳しく意見交換を行う。
橋の上にはフェンスはなかったが、旧道と立体交差をする部分にはフェンスが設けられている。落下物を防ぐ目的だそうだ。
ガードレールのボルトが前後で太さが違う。車の衝撃に耐える為、こんな工夫がされているのだそうだ。土木も面白いと思う。
橋と道路のエキスパンジョイント。夏と冬では、この差が大きいと言う。どれだけ夏に伸びるのかは教えて貰えなかった。橋の長さにもよるそうだが。
市内に入って酒田バイパスまでの道路も拡張工事に入っている。ただしオトナの事情で供用までには間に合わないそうだ。
それに併せて、酒田バイパス自体も、東大町交差点付近を拡張している。何の工事だろうと思ったらこの高規格道路の供用の為だと協力して欲しい。
開通は平成27年11月14日(土)だそうだ。
建築士会女性部のふるさと探検で、鶴岡市の致道博物館周辺を見学した時に、丁度工事中の為に中に入る事が出来なかった旧警察署だが、鶴岡支部と(株)山口工務店の計らいで見学することが出来た。
基礎石。これは利用できる物。これでは足らずに関西から運ぶそうだ。
工期は平成29年6月10日である。
不同沈下が激しいので、一度建物を持ち上げて、ついでに道路側から1m移動する為、基礎工事が行われていた。
捨てコンクリートの上に、基礎石を設置する。
Kさん撮影
建物は骨組みを残して、すべてはぎ取られていた。ただし文化庁の仕事なので、使える物は使う方針である。単なる耐震や補強では無く、明治時代に建てられた当時に近づける為の工事になっている。基礎石はかなりが破損していたそうだ。
Kさん撮影
建物をすっぽりと覆う仮設の鉄骨の上屋は、基礎もちゃんとしていた。工事が終わると基礎まですっかり取り壊すと言う。最初は単に屋根だけ掛かればと思っていたが、季節風の厳しい庄内では廻りも防風ネットがないと仕事が出来ない。
上部の黒い短冊金物は当時の物。赤いL字の金物は後期に補修した時の物。
木材も出来るだけ使う。腐ってどうしようもない箇所のみ継ぎ手を施す。中央のは今回の継ぎ手。手前は以前の補修のようだ。工法も直接見られる良い機会だったと思う。渡された資料に面白い継ぎ方の部材があったが、それは別の場所で保管されている土台らしい。見ることが叶わずに残念。
この反対側はえぐれた古い部分が多かった。これで良いのかと尋ねたら、設計者(公益法人 文化財建造物保存技術協会)の指示によるらしい。
小屋組
最も不同沈下の起きた場所が、この回り階段の中央柱の下。工事前に入った事のある鶴岡のSさんは、「階段を上ると斜めになって身体がかしぐほど。」だったらしい。しかもこの階段は中2階と正式な2階に上る階段だが、1階の大屋根の上にバランス良く2階を見せたいデザインが先行していて、3階分もありそうな高さなのである。
継ぎ手も、ああなってこうなってと、見ているだけで楽しい。
飾りの基礎石も一緒に持ち上げる。多分柱が抜けない構造になっていると思われる。
建物は鉄骨材で挟んで持ち上げる。
現場に入ると言うので、ヘルメット持参するが、それに気を取られてカメラを忘れた馬鹿者が私。今回は携帯で撮す。内部が暗いのであまり綺麗に写らなかった。
一連の東京行きはアメ横で終了する。これはおまけの話である。
オリンピックエンブレムで有名になった佐野氏デザインのポスターが、主催者側の都合で撤回された。それがこれだ。
あらまぁ!これは・・・・・・。
好き好きとか、善し悪しは別として、大事な催しの予告になった。
建築家クランク・ゲーリー氏の名前は痴呆症にかかった私の頭では思う浮かばない。しかし、彼の作品のビルバオ・グッゲンハイム美術館は、印象どころか衝撃を持って知っていた。勿論、行った事はなく、映像でのみ知っている。
ビルバオ・グッゲンハイム美術館は、スペインのビルバオにあり、曲面の金属板で仕上げられた美術館である。この奇々怪々な建物はどうなのよと思うが、これが建設されたお陰で、ビルバオ市は人口の何倍もの観光客が押し寄せていると言う。美術館に続く橋も独特で、楽しさに溢れている。この美術館は裏寂れた港湾の一角に建てられているが、単に観光客が増えただけでなく、港湾にも活気をもたらしたと言う化け物みたいな建築なのである。
彼は建築界のノーベル賞のピリツカー賞を受賞したことのある建築家である。彼の建築展は2015年10月16日から2016年2月7日まで、六本木の21-21で開催される予定である。
ここまで歩いてくると、汗がダラダラになるほど暑かった。私はそのまま美術館に入るつもりでいたが、Nさんは午後一の新幹線で酒田へ、S氏は別に見たい物があるとかで、上野駅で別れる事になった。私はその足で美術館に戻る。
開催中のボルドー展と常設展を回った後に、多分あの部屋だろうなと予想はしていた小部屋での「ル・コルビジェ-女性と海」を見る。
たいていの建築家は絵を描くが、ル・コルビジェは本格的だった。画家顔負けの大作もあり、パステル画、水彩画、油彩画も手がけている。このポスターの絵のように、ピカソ並みの腕である。ちょっとは落ちる。彼が撮した写真や8ミリも上映されていた。ここに来て、コルビジェの人となりがわかる。生前はさほど愛妻家でもなかったのに、奥さんが亡くなると、その悲しみ様は半端でなく何日も嘆き悲しんだとか。可愛がっていた犬(映像にも残っていた)が亡くなった時も悲しんで、その皮でブックカバーを作ったとか。(そりゃないぜと思う)
と、言う訳で、コルビジェの建築には西洋美術館しか触れられなかったが、ゆっくりと時を過ごすことができた。ちなみに、西洋美術館は世界遺産の申請をしているそうだ。
旧岩崎邸庭園の中にある東京都近現代建築資料館に入る。岩崎邸のチケットでそのまま入れるので、まるで只のような金額設定である。
さもありなん。ル・コルビジェに関する書籍資料と、中央に国立西洋美術館の模型があるだけで、日本の建築家達のスケッチだったりコメントだったりが並んでいるだけだった。拍子抜けする。つまりは、旧岩崎邸は○で、コルビジェは×(私的に)だった。旧岩崎邸が見られたので良しとするか。
不忍池の中央を渡って、上野公園へと向かう。
今年はもう見られないかと思っていた蓮の花に出会う。
私の目線の高さから、この蓮の大きさが判るだろうか。酒田で見るのと違い、どれだけ大きいのか。栄養が豊富なのだろう。水面は緑色で濁っていた。バシャンと水音も聞こえる。何かいるのか。
いたいた!ここは濾過器の注入口か。鯉たちが深呼吸をしている。
左側の池にはスワンボートが浮かんでいた。
上野公園に着く。
翌日、上野の不忍池のほとりを歩いて、旧岩崎邸に向かう。今日は暑くなりそうだ。
旧岩崎邸の庭園の中に、東京都近現代建築資料館がある。庭園の開園は9時から、資料館は10時からだったので、9時に入って庭園と建物を見ることにした。
チケット売り場の大きな銀杏。
そして旧岩崎邸である。内部の見学はそのチケット代に入っている。外側からの撮影はOKだったが、内部は不可で断念。
この洋館は、今まで見たどの洋館よりも豪華で職人の細工が見事だった。こんな建物は見たことがない。岩崎弥太郎の長男、岩崎久弥氏が発注し、設計は建築家のジョサイア・コンドル氏。1896年(明治29年)に竣工する。その豪華な造りで、迎賓館のような使われ方もされ、関東大震災では広大な屋敷地が避難所にもなったようである。現在の敷地は当初に比べて、随分と減ったようである。
手作りの壁紙も、木製の柱の装飾も、各室で異なる暖炉の装飾も、まぁ驚くほど見事である。ここに携わった職人達は、嬉々としてまた悩みながら良い仕事が出来ただろうと思う。
洋館は迎賓館として、和風の住宅は住まいとして使用された。この和風住宅も見事である。ただ、造られた当時から面積は半分以上も解体されている。実に惜しい。その解体された位置に、建築資料館が建設されている。
これはコンドル設計のログハウスのビリヤード場。地下通路で迎賓館と繋がっているそうだが、見学は不可だった。
この小屋組のウロコ壁も素敵だ。ログハウスが100年以上も保つとする証明のようだ。