酒田大火から40周年の節目を迎え、酒田大火シンポジウムの前段で町歩きを行った。時間までに酒田市役所に着くと、驚くほどの人がいた。せいぜい20人程度だと思っていたのだが、渡された資料も足りなくて仏壇の佐藤さんはコピーしに走った。参加者は勿論酒田市民もいたが、遠くから参加された人も多いのに驚いた。特に太平洋側からの方は、震災復興のヒントになるかと考えたそうである。
JC酒田青年会議所 7月例会「酒田大火」 5分50秒
40年前の酒田大火とはどんなだったかを、少しだけ紹介した動画があった。酒田JCさん達の物らしい。NHKではドキュメンタリーとして30分か1時間番組を作っていた筈だ。以前、別のシンポジウムでそれをお借りした事があった。
若干の説明の後、移動する。信号を渡るにも大勢過ぎる。
まずは、火元のグリーハウスの辺りで説明を受ける。グリーンハウスは、とても素敵な木造の映画館だった。残念なことに、そこが火元となり、折からの30km/sの強風に煽られ燃え広がるのだが、鉄筋コンクリートの大沼デパートに囲まれ延焼までは時間が掛かった。大沼デパートが突破されると、ト一屋方面へ横に火が走った。もう一団はアーケードを煙突のようにして風下に向かう。
上空を真っ赤にした炎は、大きな川の流れのように遙か彼方へ火の塊を運んだ。火の粉なんて可愛い物ではない。木材が燃えながら飛んで行く。
防火帯となり得るだろう広い道路は軽々と突破され、新井田川に陣取った山形、新潟、秋田の応援を貰った消防は、川の水を水源にして水の壁を作った。新井田川の傍の建物は、燃えない内に延焼を防ぐ為に取り壊された。さながら江戸時代の火消しである。風下から消火の放水を行っても、強風の為に水が戻ってきて火に届かない現象が起きた。風上から燃え終わった所へ消火を行っていたが、これではらちがあかないと最後の新井田川の水の砦を築いた訳である。もし新井田川が存在していなかったら、バイパスまで燃え広がったと思われる。
さて、復興も早かった。火事に慣れている市民は、歳末商戦まで仮設の店舗を柳小路に建築する。仮設住宅は火災が済んだ3日目には出来ている。復興はスピードが命だ。新たな公園や道路を造る為の敷地の減は各家に及び、敷地を売り払って郊外に引っ越しをする人もいた。大火後の都市計画では防火地域が設定され、個別に造るのでは無く共同で店舗を繋げる計画も進んだ。被災者は諸手をあげて酒田市の提示する復興に賛成した訳でもない。特に酒田商人は一国一城の主の感覚が強い。それが我慢する所は我慢し、復興に協力した。その手法は「酒田方式」と呼ばれ、その後の阪神淡路や東日本大震災でも参考にされた。ところが、被災者の気持ちを汲むこと無く、強引な手法のみが一人歩きし反感を買った地域もあった。
「飼い主を待っているのでございます。」
地下を駐車場にし、地上は公園にした。この道路は、現在は車両の通行可になっているが、復興当時は先進的な歩行者道路にした。いかに地下駐車場を造ったとて、地方都市における車社会には対応出来ず、折からの郊外大型店舗の出店と共に、空洞化現象に拍車がかかり、商店街はシャッター街へと変わって行く。
今回の町歩きの先導の先生は、町の中心部の空洞化は全国的で、逆に大火後40年を経て商店街が生き残っているのが珍しいとも仰られたが、それは商店街の人々の血の滲むような努力の賜物だとも思う。復興時は借金するにも利子が高い時代であり、木造から耐火建築への移行で固定資産税も高かくなった。随分と無理な中で、頑張ってきたのだと思う。日本が高度成長時代やバブル期を迎えても、山形県は酒田市のせいで土地の値段は下がり続け、経済も停滞する。その痛手は今でも引きずっている。まだ若者が多かったから復興が出来たのではとも考える。今、同じ事が起こったら、復興は無理だろう。数年前の今町での数件を焼く火災では、1軒のみ新築したが、空き地は残ったままだ。
助かった薬師さんの神木。
延焼を免れた本間家本邸は、西側に土塀、土蔵、防火林で、母屋を防いでいる。昔からの工夫だ。
ちなみに、酒田のお金持ちの家の屋根は、特殊な赤瓦である。赤松は400年もの。神社仏閣にも、この瓦が使われている。一般の町屋は黒瓦か杉皮の石置き屋根だった。現在の建築基準法では、この石置き屋根では建築できない。復元された石置き屋根は鐙屋さんで見ることが出来る。
本間家本邸。南側が酒井藩主を迎える武家の書院造りになっており、奥が町屋と2つの形式で造られている。当主の光丘さんの部屋が驚くほど小さい。光丘さんは公益の走りで、自らは質素に励んだ。本来なら藩主が行うべき公益の事業も、本間家が先頭に立って行った。日和山の造成や黒松林の植林も手がけ、庄内平野を防砂から守った。
酒田は冬の季節風が台風並みの強さである。江戸時代は5-7年毎に、何百何千軒と燃える大火を繰り返している。驚くのは復興する力と速さだ。明治の庄内地震を境に、大火は納まったが、酒田市民のDNAに火事の記憶が残っている。酒田市の消防も優秀で、「強風の時には火事は起きない。起こさない。」のジンクスがあったが、今回の大火でそれは消えた。
お社があるのに気がついた。
長屋門。その板戸がケヤキの一枚物である。
門の扉の金物。
本町通りの長屋門は、藩主の物。この中央の門が男門。もっと奥に女門があって、人によって分けられている。
本間家の横には、昔堀があった。
新井田町の歩行用の道路。中町もそうだが、車社会の地方に置いて、車の出入りを閉め出すのは、致命的である。
資料館で、丁度酒田大火40年の記念の展示があった。
受付に申請すると撮影は可である。ただ、資料は公開不可だと思った。
本町で見かけた元米屋さんの建物。町屋の造りの店。和風の小物が置いてあり、今度ゆっくり行ってみようと思う。
お昼は三日月軒にした。ここは基本的に大中小のラーメンしかない。酒田のラーメンである。