報道特注【北朝鮮緊急撮って出しSP前編】 米本土攻撃可能なICBM発射! 38:04
ICBMが発射されたのに、国内ニュースは 相撲だし、国会はまだモリカケだし。新聞を見ても詳しい話が判らない。大雑把に考えると、米国全土を攻撃可能なミサイルになったので、米国は黙って見ることはない。朝鮮有事が現実になるのかなと思う。
まぁ、米国以前に、日本全土を火の海にするだけの武器を北朝鮮は持っていて、いつでも発射出来るが、日本は自国で防衛出来ないのは変わらない。その現実を見ないように目を塞いでいるだけだ。
そんな中、報道特注がミサイルについて緊急特番を発信した。特にミサイルの性能と弾頭の話はゾッとする。
北朝鮮が米トランプ大統領の来アジアを中心に、ずっとおとなしかった。これは米国と中国からの忠告を聞いたのかなと思いきや、久しぶりに今朝ミサイルを打ち上げた。なぜ休みの期間があったかと言うと、農繁期だったからだ。田植えと稲刈りの時期は、北朝鮮は静かだ。
温和しくないのが日本海での動きである。大和碓での日本の烏賊釣り船の周りに群がって、明るい照明に寄ってきたイカを横取りする。武器を日本船に向けたと言う話もある。400隻もいるし、中には中国船もいると言う話もある。
冬の日本海は荒れている。毎日のように流れ着く不審船。ハングルや数字の書かれている小型船なのだが、中には漂う幽霊船のように乗組員のいないもの、半ば白骨化した死体が入っている物と様々だ。
山形県沖にも漂着する。
庄内浜でも警察がパトロールをしていると言うが。
毎年40-50隻が流れ着くと言う。
さて、秋田県の本荘市のマリーナに流れ着いた烏賊釣り船。
8人の乗組員は陸地に上がり、船は係留されたそうだが。
照明器具の少なさと、木材で出来た柱は、他の船では波に持って行かれたのか。
ケーソンの向こうを見ても、波が高いことが判るが、この翌日船は姿を消した。
洩れ伝わってくる話によると、漁民は軍隊の兵士だと聞く。この小型船でよく冬の日本海に出られるものだと感心する一方で、不審船が流れ着く浜は拉致事件の多い地域と重なっている。昔から日本の防衛はスカスカだなと思う。ちなみに、北朝鮮の拉致は、金正日だけが指示したと長いこと聞いていたが、その親の金日成の頃からだったらしい。
この本荘市の8名は北朝鮮に帰りたいと言っているようだが、日本に住む人(脱北者)や、支援団体「北朝鮮難民救援基金」によると、北朝鮮に戻ると当局の取り調べを受けて監視対象となり、処罰される恐れもある。一度他の国に出た者はスパイだと疑われて処分されるそうだ。日本に人道的支援をなどと言っているようだが、まるで難民の為の予行練習だ。
どこかにもっと庄内の魚が詳しく載っている所がないだろうかと、まずは山形県のHPに行ってみた。ちょっとしかなかった。
じゃ、漁協のHPはどうだろうと行ってみた。これもちょっとしかなかった。
庄内浜文化伝道師館の旬の魚たちは豊富だった。1月から12月まで載っている。魚は年中獲れるが禁漁時期もあり、一番美味しい時期と言うのが、まさしく旬である。漁協の方に言わせると、一般的に旬と考えている時期と本当の旬は違う場合があるそうで、それもしっかりと知りたいものである。
売り物になる魚と、市場には出ない漁師のまかない魚と言うのも面白かった。
山形沖や青森沖、そして秋田の本荘に北朝鮮の船がやってきた。本荘マリーナにたどり着いた船には、乗組員が乗っていたが、他の船は船だけが漂着した。時化に遭ったのだろうと思う反面、船内にイカが積まれていたことを考えると、日本の船を追い出して大和堆を占領した北朝鮮船籍だろうと悔しい。また板門店の北朝鮮兵士の脱走をみると、複雑な気がする。本荘で救助された船員達は北朝鮮に戻ることを希望しているそうだが、いつ何時爆発的な数の難民が押し寄せるか判らない。日本海側の市町村は、きちんと対処出来るのか、避難所と言うか収容所は確保出来るのか。
日本は自然災害以外は、脆弱だと思う。ボルトを緩めるだけで倒れる送電線鉄塔、停電で停まる電車、空港完成システムの故障で飛行機の離発着が出来ない。何だか、1つづつ試されているような気がする。
何時だったかの新聞で、庄内で獲れる魚が載っていた。スキャナで撮って新聞は片付けたのだが、それをすっかり忘れていた。やはり沿岸部では魚の種類が多い。
ここで気がついた。大和堆の堆の字と、鳥海礁の礁の字が違うが、深さが違うのかな。海の底はデコボコしてるし、瀬ともなればもっと浅いのだろうなとも想像する。
実に美味しそうではないだろうか。ただし、魚の大きさが判らない。
Kさんにチケットを頂いて喜んで出かけた。この会は2回目で、1回目の日本酒は初孫、上喜元、菊勇、杉勇だった。酒田飽海には9箇所の蔵元があり、それをローテーションで回していくのだそうだ。
会場は清水屋の6階で、E席に通された。
吉村知事の挨拶があると言われて、何故が走り回る知事。三浦友加さんだった。
山形交響楽団から5名の吹奏楽の団員が演奏を始めた。
そこに酒田吹奏楽団の5名が加わって演奏が行われた。
日本酒を飲むのに欠かせない仕込み水。乾杯は初孫のスパーリングの美泡吟醸。
料理に併せて清泉川から飲んでいく。
これは蜂蜜で造ったお酒。
デザートで締める。お料理は小さくて美味しい。写真で見ると沢山載っているようだ。
美加さんが描いたラーメン北前船のTシャツを買うて欲しいと説明を受ける。
今回、上喜元のお酒はなかったが、社長さんがウエーターさんに早変わり。料理はロアジスの太田シェフ。
楽しいひとときだった。
朝、雪だった。水曜日に冬タイヤに替えたので、4WDにするのはどのボタンを押すんだったかなと記憶を辿る程度で走る事が出来た。軽自動車のジムニーになったとしても、冬タイヤは重い。タイヤ交換するのに、使用済みの軍手を探したら左手ばかりが3枚出てきたのも、タイヤの側面に書かれたROTATIONと矢印もスカッと間違えて、およそ2台分のタイヤ交換したのも、自業自得とは言え大変に疲れることだった。
我が家の前では道路が真っ白だったのに、出羽大橋を渡る頃から霙に変わってきた。現場に着いたらすっかり雨になっていた。北と南でこんなにも違うのか。
9時でコンクリートミキサー車が来るので、時々雨宿りをしながら待った。22日辺りから現場の仮囲いが撤去され、ようやく全体が見えるようになった。ここは右側がキャノピーで、左側がエントランスホールである。その間に袋が積まれているのは玉砂利で、池の上になっている。大雨で水道水を入れずとも、池は水が浸っていた。
内部は、清掃と片付けで大忙しである。
ここはエントランスホール。曲面の壁に貼られた仕上げは和紙(竹墨を入れた物)である。
浄化槽のトレンチのコンクリート型枠が剥がれれば、清掃と外構が終わり検査を待つばかりだ。
この手前の黒松は、以前から敷地にあったもので、伐採せずに残した物。相変わらず雨は止まない。
これは21日の夕方に撮した北側からの様子である。
国道側から撮したもの。
デッサン力に長け、クロッキー(素描)で人や動物の動きを端的に捕らえた北斎も天才だが、自らの想像(本人は子供の頃から妖怪が見えていたらしいが)から産み出した妖怪を描いた伊藤忠太は、建築の面でも天才だった。そもそも「建築」と言う用語を造ったのも、伊藤忠太だと言われている。建築と呼ばれる以前は「造家」だった。造家には、芸術性が含まれていない。西洋のArchitectureを訳するには、建築の方がピッタリする。そう世間に定着させたのは、忠太27歳の頃だと言われている。
伊藤忠太は、米沢市の医師の家に生まれている。幼い頃から幻視と言うべき不思議な鳥や動物などが見え、それを絵に描いて楽しんでいた。本人は画家の道を選びたかったが、父に「男子たる者、国家の為に尽くすには画家ではふがいない。」と、建築の道を進められる。建築学を学んだ後に、東京美術学校を造った岡倉天心とも交流を深めている。1896年(明治29年)忠太29歳の時に、当時の内務省に古社寺保存会が出来、委員に選ばれる。そこで法隆寺の調査を行ったが、法隆寺の柱がエンタシスで、ギリシャの流れを汲むのでは無いかとの思ったのが切っ掛けで、シルクロードからギリシャへの世界旅行へ出発することになる。1902年35歳で新婚間もない妻を東京に残しての旅立ちである。
この本では、作者の青木さんがトルコ在住の為、途中の旅はあっさりと、トルコに入ってからは濃厚な展開が描かれている。和歌山沖のトルコ軍艦エルトゥールル号の遭難が1890年だから、日本と言う国は少しは知られているかと思うが、知り合いのいない国に入るのは勇気がいったろうと思っていたら、既に貿易は確保されており、イスタンブルの中村商店にお世話になったと記されている。ただ、彼が大学の卒業設計にゴシック建築を選んだ様に、イスラム建築にはあまり興味を抱かなかったようだ。イスラムと言うより、ビザンチン建築としてアヤソフィアなどを捉えていたようである。そしてトルコを中心にエジプトや中東、イタリアなどに足を伸ばす。
と、まぁ建築の話は尽きないが、忠太がトルコを移動している丁度その頃、日露戦争が起こっている。日本がロシアに勝つと、トルコの人達の忠太に対する態度が変わり、行く先々で歓迎と戦争の詳細を聞かせて欲しいとの注文を受けたようだ。トルコも長年ロシアと戦っており、その成績は芳しくない。エルトゥールル号を救ってくれた東の果ての小国が、あのロシアに勝ったものだから、自分の事のように喜んだようだ。日清日露の頃の日本は、現在とは違い、情報戦に長け多額の予算を付けたと聞く。これはこの本の受け売りではなく、他の方面からの話である。所謂スパイ大作戦が有効だったと言う話だ。現在の日本ときたら、スパイ大作戦と工作活動が日本国内で活発なのだから、時代は本当に変わったものだと思う。
新国立美術館の安藤忠雄展でも、出口付近の売店に色々な本やグッズが並んでいたが、赤い重い本はいらないし、バッグやTシャツも興味ないしと何も買わなかった。特に赤い「挑戦」と書かれた本は、入場者の手に触れるようにと建築展の至る所に並んでいたので、お薦めなのかなと思ったが、止めることにした。
本やカタログなどの紙系は、量が重なると非常に重い。旅行中のバッグの中にはカメラさえ入っている。長いこと歩くと、これさえ重く感じるのだ。
安藤忠雄展に行かなかったI氏が、地元の本屋で見つけてきたDVD。最後の1枚になっていたのを買ってきたそうだが、なかなか映像が綺麗だった。専門の教育も受けず、建築を志して数ヶ月毎に建築事務所のアルバイトを行い、実力を付けていった安藤忠雄。才能があったのは勿論だが、挑戦する姿勢が若者達に夢を与えるのだと思う。
先日の鶴岡市文化会館の見学会で、撮せなかった外観は、勿論まだ撮せていない。
どうあがいても文化会館のパンフレット以上の物は出来そうにもないし、平面図もないので、当日配られたパンフレットから抜粋してみる。
私達が入ったのは、市役所前エントランスからで、右回りで見学した。