ついに、遊佐町の丸池様の隣の小山崎遺跡の講座になった。
大好きな縄文時代。三内丸山遺跡に魅せられてから、縄文と聞くとウキウキしてしまう。
争いがなく、人々は集って暮らしをしていた。
万物に魂と神が宿り、先祖も近くに埋葬。ましてや子供の墓は寂しくないようにと最も住居から近い場所に形作った。
貝塚と言うと、一般の人々はゴミ捨て場と勘違いする。そこに埋められているのは、貝がらの他、祭事で使われた物や動物の骨と、人骨まで発掘される。
これも全ての物に神が宿るとされる、日本人に組み込まれたDNAと原風景が伺われる。
狩猟を中心にした石器時代と異なり、縄の跡がある土器を造り、生や焼く以外の煮炊きが出来るようになったのは、劇的な発明だった。
食べ物の消化がよく、煮炊き以外にも食べ物の保管にも役立つ。どんぐりや栗も発見されたが、どんぐり等は芽が出ないように先端を潰して保管した。
縄文時代は、約16000年前の草創期から晩期約2400年前までの6つの時期に分けられる。
小山崎遺跡は、早期約11500年~7000年前から、晩期の2400年前の、約4000年の長きに渡って継続して営まれた遺跡である。
遊佐町には現在210箇所の遺跡があり、その半数が縄文時代の遺跡で、山裾に位置する。
なぜ平野部に無いのかと言うと、縄文時代は現在よりも気温が高く、海水面が3-5mほど高かったからである。
平地は古くは海の中、段々干上がって陸地になったので、山裾にしか存在しないのである。
三内丸山に比べるべくもないが、小山崎遺跡は見事な縄文遺跡だった。
鳥海山の湧水のお陰なのだろう、土に埋もれた遺物は冷たい状態で保管され、特に木製品は腐らずに発掘された。
水際で仕事をする為の道路や土木工事も行われ、木杭や敷き詰めた丸太材も、きちんと残っている。
石鏃(せきぞく・石の矢じり)や石匙(いしさじ・ナイフ)には、木柄に繋ぐ部分にアスファルトが付着しており、さらに紐で堅固に固定したと見られている。
この遺跡から約13km離れた旧八幡町湯の台(鳥海山荘付近)に、アスファルトが産出している。
もっとも、日本海側にはアスファルトは豊富なのだが。
縄文時代は、日本各地様々な所と交流があり、糸魚川の翡翠、長野県星ケ塔の黒曜石、信濃川流域の火焔土器も発掘されている。
火焔土器と言うと九州が有名だ。あんなに遠くからと思うが、日本人の祖先は海を渡って日本にたどり着いた海洋民族なのだから、当然なのだろう。
遺物に木製の船のオールも見つかったそうだ。
三内丸山遺跡で、漆塗りを施されたポシェットがあった。あんなに昔から漆は使われていたのかと感動した。
小山崎遺跡でも、漆塗りの作業用に使われていた土器や、赤漆(内側3層、外側4層)の木製品が発掘された。その形を見ると、生活の為に作られたとは考えられない。
恐らく、祭事に用いられたのだろう。糸玉もしかりである。
この赤漆の木製容器は、発見した当時は鮮やかな赤だったが、空気に触れて時間が立つと、どんどん変色しくすんでいったそうだ。
竪穴住居は、随分と急な斜面に建てられていたそうで、どうしてと言っていたが、多分洪水や津波から守る為に平地には造らなかったのではと思う。
美しい小物の遺物も、大掛かりな土木工事も、何千年も昔の方がより人間的であり、人類は進歩していないのではと思わせる所が、縄文時代好きにはたまらない。
遊佐町のHPと、山形県博物館には、この小山崎遺跡の詳細が載っているそうだ。
最初は遊佐町で発掘調査され、後に山形県が主導を取り、令和2年3月に国指定になったので、逆に自由に調査できないことになった。
それはそれで残念だと思う。なお、遺物の一部は県の博物館に展示、遊佐町では残りを保管はしているものの、一般には展示していない由。
そこは残念である。いずれはきちんと整備する為に、「史跡小山崎遺跡整備基本計画」を令和4年度より策定委員会を立ち上げているそうだ。
沢山の人達に見てもらい、知って貰いたいそうで、私も楽しみにしていようと思う。